今日も和賀心学 (2021-10-19)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
天地書附に、おかげは和賀心にあり、とある。今朝頂きますのは、これは馬の前に人参をぶら下げて走らせる様なものだと。人はおかげが欲しいから和賀心になろうとする。神様は人間に和賀心になって欲しいから目の前におかげをぶら下げると。天地金乃神様の本当の狙いは人々が和らぎ賀ぶ和賀心を目指す事。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 361頁)
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合掌
中原博信
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御理解第56節
日にちさえたてば世間が広うなってゆく
ひそかにして信心はせよ
世間が広うなって行く
と同時に自分の心を寛く大きくして行く事である
ひそかに信心の喜びをじっとおさえて
心の奥に喜びの泉をつくることである
いたずらに ただ日にちが経って忘れていくだけでは
勿体ないことである
ひとりわが道をゆく
ひとり我が道を行く と教えて下さいます
ところが中々それが出来ませんねぇ
ひとり我が道を行く
それが出来たら大変有難い事なのですけれども
どうしてもついつい人様の有り様と言うのか
人様の信心と言うのを見てしまいますねぇ
ここに問題が起こる訳ですけれども
その 人を見る 人の信心を見る所から起こって来る問題
これに対しての解答と言うのでしょうか
これは中々難しいですねぇ
実は今日もそれにまつわる様な事を
教えて頂いた様な気がするのですけれども
今朝頂きますのは 天地書附にも有ります
おかげは和賀心にあり おかげは和らぎ賀ぶ和賀心にあり
これはいわゆる例えて言えば 馬の前に人参をぶら下げる様なものだ
と言う様な事を感じさせて頂くのですね
馬を走らせる為に馬の前に人参をぶら下げる
と言うアレですね
中々そううまい具合には行かないものですけれども
確かに考えるとそうですね
馬の前に人参をぶら下げると
その人参を食べたいと思って馬が走り出すと言うのでしょうかね
そしてその人参をを追っかけて行くものですから
これが人間が持って追っかけさせると良いのでしょうけれども
馬の前に棒か何かで
人参を吊り下げると言うのか
馬自身に棒をくくり付けて
その前に人参を垂らすと言うのでしょうかね
そうするといつまででも馬が走り出すと
言う狙いが有るのでしょうけれども
それが上手く行くかどうかと言う事ですね
これは当の本人にとっては上手く行くのかもしれません
ですから おかげは和賀心にあり
おかげと言う人参をぶら下げる訳ですね
そしたら走り出す 和賀心になろうとする
おかげが欲しいから その人参が欲しいから和賀心になろうとする
その 馬に人参でもそうですけれども
馬に人参をやりたいから
人参を目の前にぶら下げるのではありませんね
馬を走らせると言う事が目的である訳です
神様もそうだと言うのです
神様も おかげは和賀心にあり と
そのおかげを授けたいと言うのが神様の第一義ではないと
神様の狙いは 人参を馬の目の前にぶら下げて走らせる
その走らせる事が狙いである様に
神様の狙いは 人々が和賀心を目指し精進努力をする
その和賀心をなろうと 和賀心になろうと
和賀心を求める心を起こさせると言うのでしょうかね その
氏子が和賀心になろうとする それが狙いなのだと言う事なのですね
ですから神様が本当に授けたいと言うのは
おかげではなく和賀心だと言う事になります
神様が 氏子に求めてもらいたいもの
目指してもらいたいもの
そのそして神様が授けたいもの
それは和らぎ賀ぶ和賀心を本当は授けたいのだと
求め続けて欲しいのだと
その為におかげと言う人参をぶら下げられた訳ですね
さあここからが 今日の問題が出て来た所なのですけれども
本人は なる程和賀心になりたいと言う心が起こって来る
おかげが欲しい
為には和賀心になろうとする
そしてその事が段々 あぁこれはおかげではなかった
神様の願いは和賀心だと言う事になり
自らの中に
和らぎ賀ぶ和賀心を求め続ける様になる
そしてそこに神様がおかげも付けて下さるならば
たまにはその馬が人参を食べられるならば良いのですけれども
ここが問題なのですね
その目の前にぶら下げられた人参を目指して走り出す馬
それはそれで良いのですけれども
その仲間の馬を見ている他の馬が問題なのですね
おいおいあの馬は
目の前に人参をぶら下げられて走り出した
走り出したのは良いけれども
幾ら走っても人参が食べられないじゃないか
と他の馬たちには映ってしまう訳ですね
さあここが問題ですねぇ
ですからその一頭の馬であるならば
目の前に人参をぶら下げられて そして走り出す
おかげは和賀心にあり と言われて
おかげを目指して和賀心になろうとする
それで良いのですけれども
それを他から見ている人達にとっては
あの人は和賀心を目指しているけれども
和賀心になろうとしている
和賀心になったのかもしれない
けれども おかげが付いて来てないじゃないか
これなら目の前におかげをぶら下げられても 和賀心になろうとしても
意味が無いじゃないかと言う様に映りかねないと言う事ですね
大変微妙な難しい所が有ると思いますねぇ
神様にとっても痛し痒しと言う所かもしれませんねぇ
その一頭の馬を走らせる事は出来るかもしれないけれども
出来たかもしれないけれども
その人参を目指して走り続けている馬を見ている
他の馬たちにとっては
その人参をぶら下げられた事が余り魅力が無いものに映ってしまう
と言う事にもなりかねない訳ですね
その為には その走り出した馬が人参を口にくわえる事が出来るならば
問題無いのでしょうけれどもね
この辺のさじ加減は神様の御都合で よく分かりませんね
和賀心になって神様がおかげを授けて下さるのか
未だ未だと言われるのか
その辺のさじ加減は私どもには分かりません
ひとり我が道を行く
ひとり我が道を歩いておれば 迷わずに済むのですけれども
ついつい人様の有り様を見てしまうから
迷ってしまうと言う事ですね
只ひたすら神様が教えて下さる おかげは和賀心にあり
それを自らの心に只ひたすら頂き貫いて行けば
神様の狙いが当たるのでしょうけれども
ついつい人の信心を見て
あの人はあーだ こーだと言う事になって参りますから
あのまま人参ぶら下げられても
人参が食えないじゃないか と言う事になり
その教えが色あせてしまう様な事にもなりかねない
と言う事なのですね
大変微妙な所ですけれども
どうでも私どもが それこそひとり我が道を行く
ひとり只ひたすら神様の教えを頂かせて頂く
その教えに従うて行こうと言う
その何と言いますかねぇ 肚決めと言うのですかねぇ
それが有りませんと神様の願いが成就しないと言う事になりますね
どうでもやっぱり馬の目には周りが見えない様に
目隠しをする程度で良いのかもしれませんね
人の信心であったり 人の足元が見える 見ると言う様な事では
自らの信心が進まなくなりますね
ある意味
くわばら くわばらと言う所が有ります
どうでもひとり我が道を行くこの精神で信心を進めさせて頂きたい
そうでないと神様の狙いが成就しないと言う事になりますね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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