今日も和賀心学 (2021-10-03)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
師匠大坪総一郎師は、黙って治めると御教え下さる。しかし文字面通りに杓子定規に頂いては間違える。黙っていてはいけない時もある。勿論師匠も杓子定規に行ずる事を意図して居られるのではない。行じれば必ず疑問点が出て来る、その時は私の所へ尋ねて来なさいと仰って居られた。今朝は塩梅と頂いた。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 130頁)
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合掌
中原博信
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御神訓
信心は本心の玉を磨くものぞや
本心に立ち返るということは
人間 この世に生を享けると同時に神性が授けられる
ところが成長するにしたがい我が芽ばえてくる
神性とは似ても似つかぬ浅ましい苦悩の道へ堕落してゆく
そうした人生の分岐点に立った時
真の道を示してくれるのが真の信心である
分岐点と有りますね
ここが今朝私が頂きました事と何か関連が有る様に思います
心中祈念の時からずっと思わせられました事が
師匠が お届けに行った時によく申して居られましたけれども
御教えに取り組む 行じる
そうすればそこに必ず何かしら疑問点が起こって来るものだと
その疑問点が起こって来た時には ここに私が居るから
また尋ねて来なさい とよく仰って居られましたね
確かにそうですね
何も取り組まないから疑問も何も起きない
そのそこにマニュアルが有る
しかしマニュアル通りにしようとしても
何かしら疑問 ああここはどうしたら良いのだろうかとか
ここはどうなんだろうと言った様な事が起こって来るものですね
師匠の御教え下さる御理解 例えば黙って治めるとか
成行きを大切に 受けて受けて受け貫く と言った表現をされます
しかし師匠が本当に教えたいと言うのでしょうか
表現したいのは
その文字面と言うのですかねぇ
いわゆる杓子定規な文字面ではないと言う事なのですね
黙って治めなさいと言われる 文字にしてしまえば
教えとしてしまえば 黙って治めると言う事ですから
そこには何でもかんでも黙って治めると言う意味合いしか取れませんね
その黙って治めると言う文字を目にした時にですね
また話で聞いても そこから読み取れるのは
何でもかんでも黙って治める と言う風にしか取れません
しかし師匠が意味される所は
そうではありませんね
実は今朝は その塩梅と言う様な事も頂いていたのですけれども
いわゆる御教えにも それが有ると言う事なのですね
黙って治めると教えて下さるから 何でもかんでも黙って治める
と言う杓子定規に頂くのでは駄目だと言う事なのですね
それこそ受けて受けて受け貫くと言われるから
何でもかんでも受けて行くのだと これも違うのですねぇ
表現すればそう言う表現しか表現のしようが無いのですけれども
内容はもっと奥深いと言うのか
その時その時に応じて受け方も違って来る
これはやっぱり実際
その現場に即してみないと分からないと言う所が有りますね
黙って治めてはいけない時も有るのですね
受けてはいけない時も有るのですね
これはその場になってみなければ やはり分からない
言葉で表現するのが難しい所ですね
例えばそうですねぇ
ラーメンをお客さんに出すとしましょうか
店のマニュアルでは この一杯のラーメンに お塩を例えば
2グラムなら 2グラム入れなさいとなっているとしましょうか
ですからラーメン一杯作るのに 私よく知りませんけれども
例えばですが 例えば 2グラムのお塩を入れる それで皆に出す
マニュアル通りにすると言う訳です
しかしそれではお客さんによっては辛いと言ったり
塩味が足りないと言ったり それは様々だと思いますね
それは何故かと言うと
例えば今それこそ肉体労働をして来て
汗をブルブルにかいている そう言うお客さんと
例えば今まで冷房の中でそれこそヒヤヒヤと
机の コンピューターか何か事務仕事をして来た人
その 2人のお客さんに同じ様にマニュアル通りの 2グラムなら
2グラムと言うお塩を入れて出しても 満足されるとは思えませんね
それこそ今汗をかいて
それこそ汗をブルブル出して来た
そう言う人には も少し塩加減を効かせる
お塩を増やすと言う事が要るでしょうね
そしてまた冷房のガンガン効いた中で
事務仕事をして来た人には少し塩を減らす
と言うその塩梅をして初めて
両方のお客さんが美味しいと言って下さるのではないでしょうかね
言わば違うのですね 杓子定規にはいかない
料理と同じかもしれませんね
御教えを行ずると言っても
御教えに それこそ黙って治めると書いてあるから
と言うその杓子定規にはいかないと言う事なのです
受けて受けて受け貫きなさいと書いてあるからと
その杓子定規に御教えに取り組むのでは
師匠が意図された本当の教えを行ずる
教えをマスターすると言う事にはならないと言う事ですね
マニュアルには
一杯のラーメンに 2グラムのお塩だと書いてある
だからそれをマスターした 覚えた
これで万全だと言う訳にはいかないのと同じですね
その時その時に応じて 受けてはいけない成行きも有れば
黙って治めてはいけない事もあると言う事なのですけれども
この辺の塩梅は やはり実際その場にあってみなければ
その時その時の何と言うのでしょうかねぇ
その場にあってみなければやっぱり分からない
教えようもないと言う訳ですね
ですから師匠が 必ず行じようとしたら疑問な所が出て来る
出て来た時には尋ねに来なさい と言われた
その微妙な 教えを行じる上においての微妙な塩梅
と言うものを師匠が教えて下さる
またそうでなければ と言うのか
教えと言うのはそう言うふうに出来ていると言うものなのですね
杓子定規に教えを 文字面通りに頂くのではない
と言う事なのです
師匠は その何と言いましょうかねぇ
そこにもどかしさを感じて居られたのかもしれませんね
文字や活字になってしまうと
どうしてもその杓子定規なものしか伝わりませんけれども
実際の御教えと言うものは
もっと血肉の通うたものなのだと言う事ですね
そこの所を良く良く分かって居りませんと
ついつい杓子定規に御教えを見てしまう
そうではない 焦点はやはり
どうあったら神様に喜んで頂けれるだろうか
どう頂く方が神様の御心により適うだろうか
とそこに焦点を置いての御教えだと言う事ではないでしょうかね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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