今日も和賀心学 (2022-02-07)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
おかげは和賀心にあり、とは馬の前に人参をぶら下げるようなもの。人参を食べさせる事が目的ではない、馬を走らせたいのが本音だ。してみると和らぎ賀ぶ和賀心を目指して精進させる事が本音と言う事になる。では何の為に、それは和賀心を目指して精進する中に天地金乃神様の御心、神愛に触れさせるため。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 191頁)
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合掌
中原博信
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御神訓
真心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよ
片島せんというお徳の高い先生が居られました
或る時 大きな手洗石がお供えになりました
神様にお届けをなさり この大きな手洗の水が一日で
なくなりますような沢山の氏子をお引き寄せ下さい
と願われました
神さまより何の受け応えもありませんでした
尚 お願いをなさると神さまより
なぜ真心を求めて来る氏子をと願わぬか
とおさとしがありました
神様が求め給うのは真の信心であることがわかります
残るのはお徳であり真の信心であります
同時に 毎日 子供に孫に伝わる信心を願わねばなりません
どうぞ神さまのお役に立つ氏子にお取り立て下さい
と繰り返し願うのです
神様のお役に立つ氏子とは どういう氏子であろうかと思います
それはやはり真の信心と言うのか
神様の思いを正しく伝えてくれる様な氏子
ではないだろうかと思いますねぇ
今朝 心中祈念の時に頂きます事は
今 初代ですねぇ 師匠大坪総一郎師の 3時の研修の時の
録音されたものを整理させて頂いているのですけれども
それをやはり整理の為に聞かせて頂きます
そこで分からされました事が
ある意味 朝の御理解が着物の表地だとすると
3時の研修のお話はその裏地の様な感じでしょうかね
昭和 52年から 57年までが残って居りますけれども
そのお話を頂き 一番に分からせて頂く事
それは師匠の御心だと言う事ですね
その言わば朝の御理解が指針と言うのでしょうか
ああした方が良い こうした方が良いと言う
そう言う指針とすれば
その研修にお話しされているのは
その御心と言うのでしょうか 師匠の心を吐露されている
と言う様な感じが致しますね
その心に触れると言う事だと思うのですね
信心とは結局 勿論教えを守る事でも有りましょう
神様のおかげを頂く事でも有りましょうけれども
その神様の御心に触れる
と言う事がやはり一番大切なのではないかと思いますね
神様の御心に触れる 表現を替えれば
その愛情に触れる 愛に触れるとも言えるのかもしれませんね
例えば おかげは和賀心にあり
と教えて頂きますから
私どもは おかげが欲しい
おかげが欲しいから和賀心になろうとする
丁度馬の前に人参をぶら下げて走らせる様なものでしょうかね
私どもはそのおかげと言う人参を目指して和賀心になろうとする
ところが その馬の前に何故人参をぶら下げるか
それは 馬に人参を食べさせたいからでは有りませんね
食べさせたいなら
馬の口に人参をやれば良い訳ですから
そうではない 馬を走らせたいから
馬の前に人参をぶら下げる訳ですね
と言う事になると
おかげは和賀心にあり と言うのは
神様が私どもにおかげをやろうとして
そう教えて下さったと言う事ではない事が分かりますね
別の所に目的が有ると言う事です
馬の前に人参をぶら下げるのは
馬を走らせたいからぶら下げるのだと
おかげが和賀心にあり と言うのは
その和賀心を求めて精進する 精進させる
それが目的だと言う事になりますね
和賀心を求めて信心をすると言うのでしょうか
和賀心を求めて精進をする
その姿が 神様が求めて居られる事だと言う事になりますね
では私どもが和賀心を求めて精進すれば何が分かるのか
勿論あああったら和賀心になれる こうあったら和賀心になれる
いやこう言う小さな心では和賀心にはなれない
もっと大きな心にならなければ とても和賀心にはなれない
と様々に精進をさせて頂く事になります
その精進する事が神様の目的であると言う事にもなりますね
そしてその中で
やはり一番に分からせて頂かねばならないのは
神様の御心に触れると
これは神の愛に触れると言っても良いのかもしれません
その私どもが なる程その神様の心に触れなければ
とても和らぎ賀ぶ和賀心など頂けるものでは有りませんね
どういう辛い苦しい中にあってでも そこに神様の御心を感じる
神の愛を感じるからこそ堪え忍ぶ事も出来ると言う事になりますよね
結局和賀心を目指すと言う事は 神様の御心を感じる
その為に和賀心を目指させられるとも言えるのかもしれませんね
ただおかげが欲しいから和賀心を目指す
と言うのでは
おかげが 言わば幸せが欲しいから その為にはお金が要ると
お金持ちになろうと言うのと余り変わりませんね 五十歩百歩ですね
そのお金を目指すのが
和賀心を目指す 事になった
お金が欲しい お金が欲しい
或いは金が欲しい ダイヤモンドが欲しい
それが和賀心を目指すと言う事になっただけの事ですから
それは余り違いは有りませんねぇ 五十歩百歩です
そのただ自分がおかげを頂く事の為に和賀心を目指す
と言う世界から もう一歩先に踏み込んで
それは和賀心を目指すと言うその精進の中に
神様の御心に触れる と言う事があって初めて
何も お金を目指す
お金儲けをしよう
金を ダイヤモンドを得ようとしたからと言って
神様の御心に触れると言う事は難しいですね
しかしその和賀心を目指す精進をする中には
神様がその御心を吐露して下さる 神様の御心に触れる事が出来る
そこに初めて 人間の真の幸せと言うものが
頂けれる様になるのではないでしょうかね
結局のところ 神様の御心に触れる 或いは
師匠 初代の心に触れると言う事がやっぱり一番大切だと思いますね
和賀心を目指す事によって 神様の御心に触れさせて頂く
その事が一番大切だと今朝は教えて頂きました
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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