2022年2月28日月曜日

4年半後にホウレン草のお知らせ (2022-02-28)

 今日も和賀心学 (2022-02-28)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


師匠大坪総一郎師は、ご自身にかけられた神様の願いが成就する為にと成行きの一切を受けて受けて受け貫かれた。しかしそれが一生涯そうだった訳ではない。4年半後にホウレン草のお知らせを頂かれ、赤い葉や枯れた葉は取り除き、土が付いてジャキジャキする所は綺麗に洗って滋養になる所だけを頂けと言う事になった。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 165頁)


ビデオ: https://youtu.be/zzreDiCiLEg

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合掌

中原博信

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(初代/ポッドキャスト番組名): 大坪総一郎師御理解集

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御神訓




家柄人筋を改むるより

互いに人情柄を改めよ




喜びあふれる思いやりは どんなにか人を喜ばせ元気づけ

人の心を生かす動きになるかわかりません




人情柄を改めるということは家庭内だけでなく

社会での人と人とのふれあいの場でも表わせるおかげをうけたい




明るい社会 豊かな家庭をつくりたい

人も助かり自分も立ち行く道を進めて行きたい




それには

教えを行ずる生活者であらねばならない




教えを行ずる生活者であらねばならないと




それは師匠が教えて下さる事を正しく分かり

正しく行じると言う事だと思いますね




何かそう言う御理解が あれは楠木正成ですか

の御理解が有ったと思いますね




正しく頂き 正しく行じると言う事が大切な所だと思います

これはやはり稽古が要ると思いますね




ただ教えを聞いた 見た

或いは読んだと言うのでしょうか




それだけでは

中々本当の教えが身に着くと言う事ではない様に感じますね




どうしても私どもは文字面を追い

杓子定規に教えを解釈しようと致しますね




やはり生きた人間から 生きた人間に

伝わって行くのが本当の教えかもしれませんね




あれは不立文字とか言うのが有りますね

そう言う所も有る様に思います




今朝は実は師匠の頂かれたお知らせの ホウレン草のお知らせの所を

心中祈念の時に思い返させて頂いたのです




師匠がなる程成行きを大切に尊ぶ

あるいは土の心 受けて受けて受け貫くと教えて下さいます




しかしそれは師匠が例えば

一切のものを受けて行こうと




私の 私にかけられた神様の願いが成就する為に

一切合切を受けて行こうと決心されます




それからそれこそ一切合切を受けて行こうと 先ず決心をする

心に決める それからなる程受けて行かれた




しかしその一切合切を受ける修行は 4年半で止まって居りますね

神様がストップをかけられた それはホウレン草のお知らせをもって




それこそ師匠は お金を貸してくれと言う者には

お賽銭箱を引っくり返して貸したと




まぁこれにも裏話が有る様ですけれどもね




あるいは病人を預かってくれと言う人には

どんな病人でも預かったと




しかしその 4年半 その修行を始められて 4年半経った時に

ホウレン草のお知らせを頂いたと




言わば今までは 赤いそのホウレン草の

葉が赤くなった所や 枯れた部分や




それこそ根っこに土がジャキジャキ付いている様なものでも

丸ごと頂いて来たと




それはもう余りもの事であるから 赤くなっている葉や

枯れた葉はもう取り除けと




土が付いている所は綺麗に洗い上げて

それこそ滋養になる所だけを頂けと




そう言うお知らせを頂かれて居られますね




それからはもうそのお金を貸してくれと言う者もいなくなったし

病人を預かってくれと言う事もなくなった




勿論預られなくもなったのでしょうね

師匠が 例えば友達がお金を貸してくれと言って来る




これも成行きだから 一切を受けなくちゃいけないのだから

貸さねばならないのだと そうではないよと




言わば師匠の 4年半の修行の間であったならば

貸されたかもしれないけれども




もうその 4年半の修行の後

ホウレン草のお知らせの後は そうでは有りませんね




例え友達が 誰彼がお金を貸してくれと言われても

それが本当にその人の為になるのであるならば




例えばもう明日食べる米を買うお金が無い だから貸してくれと

これは貸さない訳にはまいりませんね




しかしそのお金でそれこそ明日タバコを

今タバコを買うお金が無いから




あるいは明日どこそこに映画を観に行きたいから

あるいは博打をしたいからお金を貸してくれ




と言う様な者は 貸す必要はないよと 寧ろ貸してはいけない

それはその人の 友人の為にならないからですね




言わばそう言う成行きは受けてはいけない

と言う事になって来た訳ですね




その師匠が一切合切を受け貫かれたと言う 4年半の修行

確かにその覚悟は要ります




よし一切合切を受けて行くぞ と言う覚悟が要ります

そして神様がその覚悟が本当に有るのかと言う 試される事が有ります




そして神様が もうよし この氏子は間違いが無い

なる程一切合切を受けて行くと言う腹が出来た




決まったと認められたら

それから後は もう一切合切を受けて行く事はないぞと




いや寧ろ受けると却って害になるものが有るから

それは除けてしまえと言われる様な世界がまた来る訳ですね




その辺になりますと それこそこれからは

その成行きを頂くべきか 頂くべきではないのか




そう言う迷いが起こって来たり致しますけれども

その辺はそれこそ師匠の生き様と言うのか あり方を勉強させて頂き




これは頂いて行くべきなのだ

これは頂くべきではない成行きなのだと言う




見極めだつく 見極めをつける為の

それが稽古と言うのかもしれませんね




野球でも ボールを打って空振りしてもつまりませんしね

ストライクになるボールを打つと言う




それがストライクのボールなのか

いわゆるボールのボールなのか




これはやはり稽古をしなければ

その見極めがつきません




ですからそこにストライクゾーンだけは打つと言う

その稽古が 積み重ねが要ると言う事でも有りますね




それは結局 神様の御心に適う様な頂き方をする

と言う事ですけれども




ですからやっぱり神様の顔色が分かる様になるまでの稽古が要ると

中には失敗をする事も有るでしょう




それは神様もお許し下さるのではないでしょうかね

それこそお気付けをもってと言う事になります




あぁこれはお気付けを頂いた 私の頂き方が間違っていたのだ

とそこは素直に改まって行かねばなりませんね




ですからそれこそ

お気付けがやはり要る訳です




また私の成行きの頂き方が間違ってはいないだろうか

と常に問い続ける 言わば神様の御心はどうだろうかと求め続ける




神様の顔色を伺い続けると言う精進努力が必要だと

言う事になりますね




師匠の 4年半の間の事だけ その時におかげを 御縁を頂いた人は

何でも頂けと言う教えしか知らないでしょう




しかし師匠がその 4年半を抜けられた後に

御縁を頂いた人は




成行きを全部が頂くものではないのだと

滋養になる部分だけを頂いて行くのだと言う教えに触れるでしょう




師匠の教えも時代時代によって変わって来る 来ている所が有ります

何もかも昔に戻れば良いと言うのでは有りませんね




やはり一番良いのは それこそ師匠が最後に行き着かれた

合楽理念が確立したと言われる それからのものを頂いて行く




そこに焦点を当てるのが

やっぱり一番だと思いますね




しかしそこに至るまでの過程を

又ないがしろにすると言う事ではいけませんね




どういう過程をもって そこに至られたかと言う

それを分かる事もまた大切では有りますね




しかし私どもが 初代の 師匠の真似をすると言えば

やはり御晩年になさって居られたその世界と言うのか




その御流儀を学ばせて頂く そこに神習わせて頂く

と言うのが一番良いのではないでしょうかね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



2022年2月27日日曜日

師匠大坪総一郎師の御流儀、電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも皆んな私が悪いのです (2022-02-27)

 今日も和賀心学 (2022-02-27)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


今朝は変わった事を頂いた。和賀心になったからと言って争いが無くなる訳では無いと。中には争いが好きな人も居る、そういう人は争いの中に得手勝手な和賀心を求め様とすると。人間社会にも色々な流儀があると。師匠大坪総一郎師の御流儀は、電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも皆んな私が悪いのですと一切を自らの改まりの材料とする事だと。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 389頁)


ビデオ: https://youtu.be/WdwNizBclFE

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中原博信

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御理解 第65




日柄方位は見るにおよばぬ

普請作事は 使い勝手のよいのが よい家相じゃ




よい日柄というは 空に雲のない ほんぞらぬくい

自分に都合のよい日が よい日柄じゃ




いかに暦を見て天赦日じゃと言うても

雨風が強うては 今日は不祥のお天気じゃと言うではないか




日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え




鳥や獣には日柄も方位もない

人間にだけあるはずがない




天地の恩恵の中に生きるものは総て 人間も動物の仲間である限り

生きる自由の与えられておる事をわからねばならぬ




生きる自由が与えられている

これは誰にでもと言う事でしょうね




と言う事は その何と言いましょうか

争い事と言う事も起こり得ると言う事ですねぇ




一寸おかしな話ですけれども

誰もが生きる自由が与えられている




そうすると一人が生きようとすると

一人が邪魔になると言った様な事が




やはり起こって来るのでしょうからね




共存共栄と言う事が言われますけれども その共存共栄が

そう言う道が有るのならば それが一番良いのでしょうけれども




中々現実には そうは行かないところが有りますねぇ

やはり人間の我情我欲がぶっつかるからですね




今朝は一寸変わった事を頂きました

それは あちらこちらで 例えば争い 戦争が起こっている




また悪い事も起こっている いわゆる悪人と言われる人達が居られる

これはいわゆる人間の目から見て




善人と言われる様な人達の目から見て

悪人と思われる様な人達が居られる




色々な人達がうごめき合って居ると言うのか

生き合って居ると言うのか




そう言う中で 例えば和賀心になる

和らぎ賀ぶ和賀心になる




その和賀心になれば 戦争は無くなるのか と言うと

必ずしもそうではないと言うのですね




それは悪人には悪人の論理が有る

と言うのです




なる程私達普通の人にとっては

いわゆる善人と言われる人達にとっては




争いの無い世界 人を妬んだり羨んだりと言うのでしょうかねぇ

人の物を奪ったりと言うその




いわゆる争いの無い世界が平和な世界であり

その中に和らぎ賀ぶ和賀心も頂けれると思うのですけれども




そうとばかりは言えないと

言わば寧ろ人の物を取ったり 人を殺したり 戦争をする




そう言う中に心が和らぐ そして喜ぶ そう言うものを見い出す

と言う人達が無いとは言えないと言う訳ですね




言わば争い事が好きな人

戦争が好きな人にとっては




寧ろ戦争をする事の方が心が和らいで居れ

その中で喜んで居れるかもしれないと言う訳ですね




人間はどちらかと言うと争い事が好きなのかもしれません

映画にしろテレビドラマにしろ 争い事が氾濫していますねぇ




戦いの場面が沢山有ります それは良い人と悪い人と言う風に

区別されて しかしその中で繰り広げられるのは戦いですね




ゲームが色々有ります そのゲームの中でもやはり戦いです

平和な 戦いの無いゲームと言うのは余り有りませんねぇ




中には有りますけれども 人気のゲームと言うのは

いわゆるバトルゲームと言うのでしょうか




それが現実に 人に危害を加えると言う事ではないから

未だ許されているのかもしれませんけれども 内容は争いですよね




何々ゲームであったり 何々ゲームでそこで繰り広げられているのは

戦争のゲームであったり 撃ち合いであったり




例えばそのマーシャルアーツですか いわゆる空手であったり

そう言うものでの戦い 争い事です




その争い事に 言わば この人の方が善いと思う様な人が勝てば

拍手を送る 悪人が勝てば一寸がっかりすると言った様な




そのそこに繰り広げられているのは

やはり争いであり その争い事に対して楽しみを感じている




これが戦争ともなると そのゲームの世界が現実のものとなる

現実のものは なる程悲惨な結果を生みますからね




しかしその本質的に

人間の中に争い事を好むと言うものが有るのかもしれませんね




そう言う人達にとっては寧ろ

争いの中に心が和らぎ賀ぶと言う人々が居られるかもしれません




ですから和らぎ賀ぶ和賀心になると言っても

どう言う状況で和らぎ賀ぶ和賀心になるのか




それは人によって夫々だと言うのですね




ですから必ずしも和賀心になったからと言って

戦争が無くなると言う事ではないと言う事なのですね




ではどうしたら良いのだろうか それは信心にも御流儀が有ると

剣術ですか 色々な流派が有りますね




それと同じ様にやはり信心にも

この世を生きて行く上にも その御流儀が有る




例えば師匠は

師匠の大坪総一郎師の流儀が有る




そこに御縁を頂いたらその流儀を

その師匠の御流儀を頂いて行く事だと




そこに神様との交流も頂け

神様からの特別のおかげもやはり頂いて行く事が出来る




でその師匠の流儀は何かと言うと 色々有るのでしょうけれども

今日教えて頂きますのは




電信柱が高いのも 郵便ポストが赤いのも 皆な私が悪いのです

と言う生き方だと




つまり一切のもの

私どもに関わる一切の事




それらを自らの心の改まりの材料として

自らの心を改まって行くと言う事だと




極論をすれば あそこで戦争があっておる

これは私の心が悪いからだと 私の心を改めなければならない




その為にあそこで争いが起こっているのだ

と言った様な頂き方にもなりますね




極論で頂き難いかもしれませんけれども

しかし師匠ならそう頂かれるでしょうね




それこそ当時の若先生の御祈念のスタイルを見られて

あんな格好で御祈念をしてと思われた




けれども次の瞬間 いやあれは若先生の事ではない

これは私の心がそうなのだと




私の心を改める事を 神様が指摘して下さったのだと

もし戦争がそこに有るとするならば




私どもの心の中にそう言う争いを好む心がないものかと

自らを改まって行く 自らを律して行くと言うのでしょうかね




そう言う生き方が

師匠の生き方である訳ですね




電信柱が高いのも 郵便ポストが赤いのも 皆な私が悪いのです

と一切を自らの改まりの材料として行かれた




これが師匠の御流儀だと

そこに神様からの特別の御働きも頂けれると言う事ですね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



2022年2月26日土曜日

この御道は天地金乃神様のおかげを頂きながら心を育てて行く道 (2022-02-26)

 今日も和賀心学 (2022-02-26)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


この世に生を受けた人間の本願は、魂を磨き清める事、即ち心を育てる事に置くのが本当だと思う。地位や名誉や権力や富では無い、只ひたすら自らの心を育てる事。それは万人に於いてそうだと言う事。その事を教えてくれるのが真の信心であり、しかも天地金乃神様のおかげを頂きながら心を育てて行く道である。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 421頁)


ビデオ: https://youtu.be/8QADQOVJq3c

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御理解 第76




人間は人を助けることができるのはありがたいことではないか

牛馬はわが子が水に落ちていても助けることができぬ




人間が見ると助けてやる




人間は病気災難の時 神に助けてもらうのであるから

人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ




その場かぎりなら金ででも助けられる

物でも助けることは出来るが




心から助ける 又は永遠の助かりにつづく助かりは

真の信心による他に道はありません




助ける者自身が難儀を修行とわかり

神愛と悟り心に真の喜びをうけ




その心で人に話をしていけば そこから

神の示現 神仏が不思議な働きを示し現わすこと




がおこり自他共に助かることの出来る道が開かれ

人間最高の生き甲斐ある信心生活が営まれるようになる




私どもは 信心をさせて頂くと言いますが

その信心をする者と しない者の違いがどこに有るのか




また私どもがそれこそ この世に生を受けた

いわゆるその人生の目的と言うものは何であるのか




人によって色々有ると言われるかもしれません

ある人は それこそスポーツ選手になって成功しようと




オリンピックで言えば金メダルを取ろうと

そこに人生の目標を定める人も居られるでしょう




あるいはお金持ちになると

お金が有れば何でも出来ると




また有名人になろうとか 政治家になろうとか

権力を手にする 夫々様々の欲望と言うのでしょうかねぇ




その自らの欲望を満たす その事の為に一生を過ごす

そう言うものが多いのではないでしょうかね




そう言う中にあって 人生の目的

人がこの世に生を受けた本当の目的と言うものは何か




それはやはり 心を育てると言うこと

この世は魂を磨きに来たのである と言われる




この世に来た この世に居るその目的 本願と言うのでしょうかね

それは魂を清める事 心を磨く事に有る




と言うのが本当の答えだろうと思いますね




しかし中々その本当の事を教えて下さる

或いはその本当の答えを見い出す事が少ない




そして私は何の為に生まれて来たのだろうかとか

私の人生は何の為の人生だろうか




と迷い道に入ってしまう

そう言う方達が多いのではないでしょうかね




これは信心する者 信心しない者

或いはしていない者に関わらず




人生の最大の目的

それは心を育てる事にある 魂を磨き清める事にある




これは全人類共通の事だと思いますね

信心が有ろうが無かろうが 本来そこに目指しと言うのか




目標を置かなければならない 人生の目標をですね

しかしそこに目標を定めている人が少ない




普通は教えてもらえないからですねぇ

その私ども人間の人生の目標を教えてくれる




それがあるいは一つの宗教と言うのでしょうかねぇ

信心の目的と言うのでしょうか でもあろうかと思いますね




やはり信心をして それこそ師匠から教えてもらって初めて

人生の最大の目的は何か




人間がこの世に生を受けたその目的は何かと言う事を

教えて頂いた様に思いますね 信心をさせて頂く者にして初めて




人間がこの世に生を受けた その本来の目的

本願と言うものを教えて頂く事が出来る




それは魂を磨き清める事だと

心を育てる事だと




そしてまた同時に

なる程信心はなくとも 本を読んだり見たり




そう言う哲学書を読んだりして

そう言う事に目覚めた人が居られるかもしれません




しかし本を読んでそこに目覚めたからと言って

神様の特別のおかげが頂けれるとは思えませんね




その神様との御縁を頂く

いわゆる頭で考えて なる程心を育てよう と言うのではない




実際に神様を体験して 神様の御働きを体験して

なる程神様のおかげを頂いて 神様と共に自らの心を育てて行こう




自らの魂を磨き清めして行こう とその神様と共にと言うのか

神様のおかげを頂いて心を育てて行こうとする人の上に初めて




神様の特別の御働きが頂けれる

それこそ奇跡的なおかげも頂けれる事も有りますね




いや寧ろ毎日が奇跡の連続と言うのが本当でしょうね

私どもが何かやろうとして 本当は出来る事ではない




師匠が吾無力と言う境地に到られた

そこに到ると日々起きて来る事柄 それは奇跡の連続だと




これは感じるものですね

おかげの世界が広がって行く




それは今まで一頂いていたおかげが 十おかげを頂く様になる

と言う事もありましょうけれども




また今まではおかげと感じていなかったものを

おかげと感じる様になる




だから頂いているものは同じでも 有難いと言う感謝の心の方が

一から十に増えると言うのでしょうかね




今まで頂いていると思っていたそのおかげが

実は氷山の一角にしか おかげと気付いていなかった




本当はその九割方は隠れていた

その隠れている所もおかげだと




それこそ難儀もおかげであった

難儀のおかげで心を育てて頂く事が出来た




頂く事が出来ると言う事が本当に分かれば

難儀もおかげだと言う事になりますねぇ




それが自分に好都合の 良いおかげと言うのではない

その事によって心を磨く事が出来る




いわゆる本願を達成する為のおかげだと

言う事になりますね




おかげの世界が広がるとは 何も頂くものが広がるのではない

おかげと感ずるものの世界が広がると言う事も有りましょうね




どう言う心を育てれば良いのか それを教えて下さる

そしてまたそこに神様の奇跡的なおかげも頂けれる




と言うのが信心だと思いますねぇ




で今日神様がお示し下さる それは 教祖様のこの御理解に有ります

人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよと




いわゆる人を助ける心を作れと

人の助かりを祈る心を持てよと




そしてまたその人の助かりを祈る事 人を助ける事それが有難い事だと

そう感じる心を育てて行け と言う事ですね




私どもがこの世に生を受けたのは

魂を磨く事だ 心を育てる事だ その事の為に生を受けた




これは万人がそうなのだ だけれども信心をさせて頂く者は

そこに神様のおかげを頂いて 心を育てさせて頂く




その神様のおかげを頂いて心を育てさせて頂く所に

神様のまた奇跡的な御働きをも頂く事が出来る




道は孤ならず

と言われる所以が そこに有る様に思いますね




なる程一人だけで 自分だけで心を育てようとする事も

出来なくはないのかもしれません




しかしそこに神様のおかげを頂いて させて頂くと言うところが

信心の味噌でもある様に思いますね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます