今日も和賀心学 (2023-03-23)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
私どもはとかく自分は正しいと思う。そして相手が変わる事を望み願う。相手の行いは私の心の写し鏡であってみれば、鏡の中の相手をどんなに変え様としても無駄骨に終わる。しかし自分自身を変えれば、鏡の中の相手も変わる。信心は相手を変える為のものではない、自分自身、自らを変えて行くものである。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 170頁)
ビデオ: https://youtu.be/aj8ZFJekr8Q
音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2023-audio/03-audio/Wagakokology_Labo-jp-2023-03-23.mp3
合掌
中原博信
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御神訓
出産の時よかり物によかるより
神に心を任せよかれよ
「より良い有難いおかげにあずかることの出来ることの為に」
日頃の信心により頂いており分かって居るようでも、
いよいよ自分の事になると
案外わかっていないことに気付くものです
出産だけのことではありません、すべての事柄の中に神を信じ、
神にゆだねておる心の度合いがよくわかります
神さま以外の「よかり物」を一つ一つ心の中からとりのぞき、
よりよい有難いおかげにあずかりたいものであります
より良い有難いおかげにあずかる、
そのより良いおかげにあずかる為には
どうあったら良いのか、
私どもは、人間は大概において、自分は正しいと思っています、
そして、相手の人が変わる事を望みます、
ところが、信心は自らが変わる事を教える、
それが信心だと言えると思いますね、
自分が悪いと思う人は、
意外と少ないのではないでしょうかね、
大概相手の所為にします、そして相手の人が悪いと、
あの人がここを改まれば良いのにと、
人の欠点と言うのでしょうか、
人が改まるべき所はよく見えます、
そしてそこを改めようと致します、
あるいは改まってくれと願ったり、望んだり致します、
あの人が、ここをもう少し改まってくれれば良いのに、
と思います、
その何と言いましょうかね、不思議なもので、
人間の目が外に向かっておりますから、
どうしても外の事が、外の景色が見えます、
自分の事が、自分を見る事が疎かになります、
信心の根本はやはり、自らを見つめ、
自らが、自らが改まって行く事、
相手を改めようとしない、
相手が改まる事を望む事をしない、
相手の改まる事ばかりを望んで居るから、
相手は中々改まらないものなのですね、
相手と言うものが、自らの心の写し鏡である、
と言う事を、先ずハッキリ認識しなければなりませんね、
私の心が照り返って居ると言うわけです、
私の心を写してくれているのが、
相手の行動と言う事にもなりますね、
ですからこちらが変われば、
相手の行動も変わって来る、
相手の行動が、態度は変わらない、それは、
こちらが変わっていないからだと言う事になりますね、
鏡を前に立てて、鏡の中の向こうに映って居る人物を
変えようとしても、変わりませんね、
丁度その様なもので、私どもは、
鏡に映って居る向こうのものを変えようとするわけですね、
ところがどんなにしても、鏡の向こうに映って居るものは、
変えようが有りません、変わりません、
ところが、その鏡に映って居る自分を変えれば、
自分自身を変えれば、例えば手の動かし方を変えてみる、
ポーズを変えてみる、
そしたら鏡に映って居る向こうの方も変わりますね、
結局、相手の方が変わらないと言う事は、
こちらが変わっていないと言う事ですね、
こちらが変わらずに、映って居る向こうの方が変わる事を
如何に望んでも、それは無理な話と言う事になります、
向こうの、映って居る向こうを変えたいならば、
自らが変わらなければならない、
自らが変われば、映る姿も変わると言う事になりますね、
相手の行動と言うのでしょうか、対応も変わって来ますね、
とかく私どもは、相手が変わる事、
その鏡に映って居る向こうの姿が、形が、
変わる事ばかりを望んで、自らが変わろうとしない、
自らはどこまでも正しいと思って居る、
そこに一番の難儀の素が有るのかもしれませんね、
どんなに相手を変えようとしても、相手は変わらないのです、
自らが変われば、鏡に映る姿も変わるように、
相手の人も変わると言う事になりますね、
師匠の極まったお言葉でしょうかね、
何か歌の文句ですかね、
電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、
皆んな私が悪いのです、
と師匠は自らを改まって行かれましたね、
信心は結局の所、相手を変える為のものではない、
自分の周りの環境を変えるものではない、
自らの心を変えて行くもの、
その自らの心を変える事を教えるのが宗教だと、
も言えるかもしれませんね、
宗教と言うより、
信心と言うものですね、
信心と言うものは、それこそ神様の力で相手を変えよう、
と致しますけれども、そう言うものではない、
如何に神様の力を使って、相手を変えようとしても、
それは無理な話です、
それは、自らの写し鏡であるわけですから、
信心は相手を通して、自らが変わって行くものだと、
自ら変わる事、それが信心だと、
も言えると思いますね、
そして自らが変われば、
自ずから鏡に映る相手の姿形も、変わって来るものですね、
どうでも、私は正しい、そして相手を変えよう、
と言う事ではなく、
これは神様が、私を改まろうとさせて居られるのだと、
私のそれこそ汚い心が、こうやって周りに現れて居るのだ、
と言う事をハッキリ分からせて頂き、
自らが改まって行く、
自らを変えて行く事が信心だと、
腹に決めなければなりませんね、
そして相手を変えようとする心をきっぱりと捨てて、
自らが変わって行く、
そこに焦点が置かれた時に、初めて相手が変わって行く、
と言う体験も出来るものですね、
とにかく、信心は相手を変えるものではない、
自らを変えるものだ、
そして自らが変われば、
相手も変わると言う事ですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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