2023年3月3日金曜日

お道の教会は人々が問題を取次ぎの先生と天地金乃神様とシェアーする所 (2023-03-03)

 今日も和賀心学 (2023-03-03)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


お道の教会は人々が問題を取次ぎの先生と天地金乃神様とシェアーする所だと思う。教祖様も、守り守りの力によってヒレイが違うとも仰って居られる。師匠大坪総一郎師は、小さな問題は自分でおかげを受けなさい、大きな問題には私を使いなさいと仰って居られた。だからこそ安心して信心の稽古が出来る。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 238頁)


ビデオ: https://youtu.be/4HXxIlcho6c

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2023-audio/03-audio/Wagakokology_Labo-jp-2023-03-03.mp3


合掌

中原博信

-------------------------------------------------------


御理解 第15節




氏子が真から用いるのは神もひれいじゃが、

寄進勧化をして氏子を痛めては、神は喜ばぬぞ




親神さまなればこそと思います

無理をしてのお供えを親神さまが喜ばれるはずがない




しかし、おかげうけて呉れよの御心から氏子の真心を求められ、

育って呉れよの親心を思う時、




じっとして居れぬのは私共の有様です

一工夫も二工夫も要る御教えです




親神さまに喜んで頂ける、

しかも安心して頂ける御用でお役に立ちたいものです




親心と言うのが有ります、

氏子がおかげを頂きたいと思う心が有ります、




もし、この世の中に何の問題も無かったならば、

全てが自分の思い通りに、願い通りに事が運んで居るならば、




おそらく教会の存在意義と言うのでしょうかね、

そう言うものは無いかもしれませんね、




もし私どもが何の問題も抱えていない、と言う事であれば、

教会にお参りをすると言う事もないでしょうね、




やはり問題が有るから、その問題を何とか解決してもらいたい、

そこに教会に足を向ける、と言うのが大抵ではないでしょうかね、




教会がある、そこに教えを頂きに行こうとか、

教会に遊びに行こうとか、




言う人達も中には居られるのかもしれませんけれども、

大変稀だろうと思いますね、




私どもに困った問題が無かったら、

やっぱり教会にお参りをしようとは思いませんよね、




問題を抱えて居るから、その問題を何とか解決したい、

解決してもらいたい、と思うから、




やはり教会にも足を運ぶ、

と言う事ではないでしょうかね、




そのやっぱり、教会と言う所は、抱えて居る問題を軽くして貰う、

解決して貰う、神様のおかげを頂く所だと思うのですね、




その教祖様も、守り守りの力によってヒレイが違うと、

も仰って居られますね、




それは守り守り、

その教会の取次者の先生の力と言う事でしょうかね、




よく、大概の先生と言うのでしょうか、

取次者と言うのでしょうか、




普通は、その御信者さんがいわゆる問題を持って来る、

軽い問題と言うのでしょうかね、




そう言う問題は、普通にお取次ぎと言うのか、

願いを聞いて、神様にお願いして差し上げて、




そして、おかげを頂く、

それは普通の問題ならそれで良いのでしょうけれども、




それがひとたび重大な問題、大きな問題、で、

いわゆるおかげが頂けない、おかげを落としてしまう、




と言う事になった時に、大概の先生方は、

それは御信者さんの信心がまだ足りないからだ、




あなたの信心が足りないから、

おかげが受けられなかった、




と思ったり、言ったり、言う事は無いかもしれませんけれども、

そう思ったりしてしまいますね、




ところが、今朝頂きますのは、師匠大坪総一郎師の場合は、

それが全く違うと言う事ですね、




そのいわゆる日常茶飯事の易しい問題と言うのでしょうかね、

軽い問題と言うのでしょうかね、




そう言う問題に、私を使わないでくれと、

そう言う軽い、易しい問題は、自分で解決しなさいと、




自分の信心で何とかなるだろうが、

と言う姿勢なのですね、




そして大きな問題が起こって来た時、

大きな問題が起こって来て、自分ではこれはもう持ち切らないと、




そう言う大きな問題が起こって来た時に、

私を使いなさい、一緒に持とうではないか、




と言うのが師匠大坪総一郎師の御姿勢ですね、




普通は大きな問題が起こって来ると、それはあんたの信心だよ、

あんたの信心で解決しなさい、




と言う取次者の方が多い様な気が致しますね、

師匠は反対に、大きな問題が起こって来たら、




よし、それは私に任せなさい、

そしてあなたはそれこそ信心の稽古に励みなさい、




と言わば大きな問題は、私が引き受けよう、と言うのが、

師匠の信心姿勢ですね、御信者さんに対する姿勢ですね、




だからこそ、御信者さん方も、大きな問題が起こって来る、

よし、これは親先生にお願いしよう、




と、そこで安心して信心の稽古が出来るわけですね、




それが、いやそれはあんたの信心が足りんからだよ、

と言われたら、もうある意味げっそりしますね、




何の為にお参りしているのか、

分からなくなりますね、




そう言う自分では持ち切れない様な、

大きな問題が起こって来た時に、




支えて下さるもの、引き受けて下さる方が、

師匠であられたと言う事ですね、




これは取次者としての、

信心姿勢のあり方だと思いますね、




そう言う何と言うのでしょうかね、

おかげの頂く道と言うのが有ると言う事ですね、




勿論、そこには氏子の真心を出して貰う事によって、

頂くおかげと言うのも有るのでしょう、




色々なおかげの頂き方が有るのでしょうけれども、

師匠の、とにかくそのあられ方は、




小さな問題は自分でおかげを頂きなさい、

大きな問題は、ここに参って来て、私に任せなさい、




と言う生き方だと言う事ですね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



0 件のコメント:

コメントを投稿