2023年3月22日水曜日

合楽理念はその実行を以って生命とする (2023-03-22)

 今日も和賀心学 (2023-03-22)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


おかげさまで全文検索が実用のレベルに達したと思う。やっと水飲み場を用意する事が出来た様なもの。水を飲みたいと言う人は幾らでも飲める。しかし、分かったからと言って御神徳が頂けるのではない、分かり行じて初めて御神徳に繋がる。合楽理念はその実行を以って生命とする、と師匠は仰って居られる。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 20頁)


ビデオ: https://youtu.be/A4SWz5i4oAQ

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2023-audio/03-audio/Wagakokology_Labo-jp-2023-03-22.mp3


合掌

中原博信

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御神誡




口に真を語りつつ心に真のなきこと




言うことも行う事にも実意であれ

ということを教えておられる




きびしく頂いたら、いかに明瞭に金光大神を語っても、

そこに証がないなら、それは口ばかりの事になる




教えを行じ実験実証を以って語る時、

金光大神の真価が現われる




実験実証を以って語る時、

と教えて下さいます、




正に、そこに焦点が有ると思いますね、

実験をして、そこに実証を頂く、




やはり実験をしなければ、

実証が現れませんからね、




やっと全文検索が実用のレベルに達したと言いましょうか、

実用的なレベルに達して居ると思います、




言ってみれば、水飲み場が出来た、

と言う感じでしょうかね、




水飲み場が出来た、

そしてそこに、水飲み場に馬を連れて行った、




しかしその馬が水を飲むかどうかは、

馬の心次第と言うのでしょうかね、




必ずしも水飲び場が出来たから、

それで良いと言うわけではありませんね、




確かに、水飲み場を準備する事は大切ですけれども、

そこから先がまた大切と言う事になりますね、




言わば知識と言う上においては、得る事が出来る、

合楽理念、師匠の御教えと言うものを勉強する、




しかしその師匠の信心、なる程師匠の信心はこう言う信心だ、

合楽事念にはこう説いてある、




と言う事が、膨大な資料の中から探し出して、分かった、

からと言って、御徳を頂くわけではありませんね、




その分かったからと言って、知識として得たからと言って、

実証が現れるわけではありません、




そこに、御神徳が頂けれると言うわけではありません、




こうすれば御神徳が頂けれる、

と言うその方法が分かっただけですね、




言うなれば、料理のレシピがそこに有ると、

そのレシピを探し出した、と言うそこまでなのですね、




そこから先は、実際に料理を作ってみなければ、

そのレシピ通りに材料を揃えて、火をつけて、




煮炊きをして作らねばなりません、

ケーキなら、ケーキも焼き上げねばなりません、




いわゆるそこには、行動が必要だと言うわけですね、

師匠も、合楽理念、それは、その実行を以って旨とすると、




そう言う様な表現でしたかね、

そのなる程、合楽理念と言うものが有る、




御徳を受ける道と言うものが有る、

けれども、それを歩かなければ、




実際にそこにレシピが有る、でもそのレシピを眺めて居るだけで、

なる程ケーキの作り方が分かった、




この料理の作り方が分かった、と言うだけでは、

美味しくも何とも無いわけですからね、




絵に描いた餅なわけですから、

実際に材料を集めて、料理を作って、そして食べて初めて、




ああ美味しかった、このレシピは役に立つ、

本当だった、と言う事になるわけでしょうね、




ですから全文検索が出来た、

これで人が助かる、と言うわけではありませんね、




助かる為の緒に着いた、

そこまで、言わば水飲み場を作る事が出来た、




と言う事ではないでしょうかね、

後はその水を実際飲んで頂かねばなりません、




飲むか、飲まないかは、

ある意味、本人次第と言う事でもありますね、




どうでも飲んで頂きたいと、

思うのですけれどもね、




とにかく分かった、なる程そうかと合点した、と言うだけでは、

御徳にはならないと言う事ですね、




身を以って行じて初めて、神様の信用も頂けれると、

そして信用以上に、神様が信頼して下さる様な、




この氏子に、それこそ神徳を授けても大丈夫だと、

人の助かるお役に立ててくれるだろうと、




その神様から頂く信用を、人助けの為に使う、

そこに至って初めて、神様からの信頼を頂く事も出来るようになる、




為にはやはり、人が助かる為の、

何かしら、行動が必要だと言う事になりますね、




それは祈りであったり、その難儀なら難儀、

それを人が助かる事の為の修行として頂こう、




師匠が、そんな事を仰って居られましたね、

何か事がある、よし、この事を人が助かる為に、と思うて頂いたと、




その事が良かった、と言った様な事を仰って居られましたね、

神様、この事を頂きます、




その見返りと言うのではありませんけれども、

どうぞ、そう頂きますから、人を助けて下さい、




と言うわけですね、

一切が、人が助かる事の為に、この事を頂いて行こう、




修行とさせて頂こう、と言う実地の行いと言うのでしょうかね、

そこに初めて、御神徳を頂くと言う事にも、なるのだと思いますね、




分かったと言うだけでは、御徳になりません、

行じて初めて、実証が現れる、




分かっただけでは、実証は現れませんからね、

事にあたって行じで初めて、実証が現れ、




そしてまた御神徳を頂く、

と言う事にも繋がって行くと言う事ですね、




どうでもその身を以って行じる、

行じて頂かねばなりませんね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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