今日も和賀心学 (2023-02-21)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
世に護身術と言うのがある。例えば柔道や空手の稽古は、外敵から身を守る稽古だろう。信心あるいは信心の稽古とは有りとあらゆる出来事から自らの心を守る護心術の稽古と言えるかもしれない。更に神様の御守護を頂く事を考えれば護身術ともなる。信心の稽古は護心術、護身術、両方の稽古と言えよう。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 445頁)
ビデオ: https://youtu.be/YneLZXet_P0
音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2023-audio/02-audio/Wagakokology_Labo-jp-2023-02-21.mp3
合掌
中原博信
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御理解 第84節
おごりがましいことをすな
ものは、細うても長う続かねば繁盛でないぞ
細い道でも、しだいに踏み広げて通るのは繁盛じゃ
道に草を生やすようなことをすな
信心は永く続いておるが
繁昌のおかげになっていない人がある
細い細い道がただ延々とつづいているだけである
信心には、いつも履み拡げる精神がなからねばならぬ
履みひろげるということは
御教えを履み行なうということである
繁昌でないなら教えを行じていない証拠と思い、
新たに教えを頂き直さねばなりません
道と云う言葉に迷うこと勿れ
道は教えを履むほかはなし
道を追求するだけで教えを行じない人が多い
教えを行じておれば驕る心も出てこない
ここでは師匠は教えを行じる、
と言う事をお話して居られると思いますね、
その、空手とか拳法とか、柔道とか、
そう言うものが有りますね、
例えば、空手なら空手の稽古、
これはやっぱり、空手を稽古するのですね、
柔道の稽古、これはやっぱり柔道の教えを稽古する、
と言うのでしょうかね、
空手には空手の教えが有り、柔道には柔道の教えが有る、
身を守る為に色々体を使った技術と言うのでしょうかね、
信心には信心の稽古が有る、
では信心の稽古とは何か、
やっぱりその信心で教えて下さるその教えと言うのでしょうかね、
それを行じて行く、と言う事ではないでしょうかね、
空手なら空手の稽古をする、信心なら信心の稽古をする、
その同じように教えを守り、行じると言う事になりますね、
その教えが何であるか、
と言う事の違いだけかもしれませんね、
何を習おうとするのか、
その何と言いましょうかね、
空手や柔道だと、自分の身を守る為と、
言う事になるのでしょうけれども、
信心の場合の、教えを行じる、
それは、一切のものから自分の心を守る、
勿論身を守ると言う事にもなりましょうし、
心を守る為の稽古、とも言えるかもしれませんね、
柔道や空手と言った柔術と言うのでしょうか、
マーシャルアーツと言われますかね、
これはその形の上と言うのでしょうかね、
何か攻撃がなされる、それに対して守るわけですね、
しかし、限られておりますね、
例えば、ピストルで撃たれたのから身を守ると言う事は、
その大変熟練した人は、それが出来るようになるかも
しれませんけれども、大抵は難しいですね、
特にそれが、遠くの方から撃たれるとか、
人影も無い所から撃たれると言うのでしょうかね、
如何なるものからでも、身を守る事が出来る、
と言うものが有るとすれば、それは信心かもしれませんね、
信心は勿論、自らの心を自らが守る、
と同時に、神様の御守護を頂いて自らを守る、
と言う事にもなりましょうからね
護身術と言う事を言います、
自分の身を守ると言うわけです、
これは案外、信心と言うのは、
護身術の、心を守ると書く護心術とも言えるかもしれませんね、
そしてそれこそ神様の御守護を頂きながら、
また自らが自らの心に取り組みながら、自らの心を守る、
この生きて居ると言うのでしょうかね、
この世に生を受けておる、
と言う、そう言うそこにおいての、どちらかと言うと、
信心は、身も心も守ると言う事になりましょうかね、
どうでも、その自分自身を守る手立て、
それこそ、身も心も守る手立てを身に着ける、
それが信心生活と言う事かもしれませんね、
そしてそこに初めて、助かりが有る、
幸せへの道が開けて来る、自分の身や心が守れずして、
幸せへの道が開けて来るとは思えませんからね、
いつ、何事が起こるとも分からない、そう言う中にあっても、
身を、心を守り続ける事が出来る、
それがある意味、信心の稽古と、
言えるのではないでしょうかね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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