2023年2月2日木曜日

天の心をもって土の信心に取り組む (2023-02-02)

 今日も和賀心学 (2023-02-02)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


師匠大坪総一郎師の信心の根本は土の信心である。即ち成行きを受け貫き、自らの心を磨き、和らぎ賀ぶ和賀心を育てて行くのである。師匠の根本姿勢は天の心をもっての土の信心と言えよう。神様の願いが成就する事の為に土の心で受けるのである。自らの幸福ではなく、神様の幸福を願っての土の信心である。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 226頁)


ビデオ: https://youtu.be/Uvi-b1uyARE

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2023-audio/02-audio/Wagakokology_Labo-jp-2023-02-02.mp3


合掌

中原博信

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御理解 第11節




神は天地の守りじゃから、離れることはできぬぞ




神さまが離れることが出来ぬ

と仰せられているのだから、




人間氏子がこの神さまを離すことは出来ぬ

とわかり悟らせて頂くところから、




はじめて「あいよかけよ」の世界が開かれ、

神さまと氏子(私共)の歓び合いの生活が出来るようになる




御教えはすべて其の手立てである




御教えは全てその手立てである、

と教えて下さいます、




手立てなのですね、いわゆる手段と言うのでしょうかね、

教えは手段であると、




教えそのもので人が助かる、

と言う事も有るかもしれませんけれども、




それが全てではありませんね、

教えはどこまでも手段です、




言わば道具ですね、何の為に道具が有るか、

何かをする為に道具が有るわけですからね、




例えば、それは勿論私ども人間が幸せになる、

その為の道具である、と言う事かもしれませんね、




しかし道具がそこに、

例えばノコギリがそこにある、




金槌がそこにある、ネジ回しがそこにある、

と言うだけでは役に立ちませんね、




教えも、教えがそこにある、教えを頂いた、

と言うだけでは、あんまり役に立ちませんね、




ノコギリでも金槌でも、そこにあると言うだけで、

重石の代わりにはなるかもしれません、




教えを頂いたから、

そしてなる程と合点がいった、




それで心が少し楽になった、

と言った様な助かり方は有るかもしれません、




けれども、現実世界において、真実助かって行く、幸せになる、

と言う事にはどれ程役に立つか、




それは本当の役に立ってるとは言えませんね、




教えは言わば道具ですから、

その道具が道具としての値打ち、価値を現す、




その為には使わなければならない、

と言う事になりますね、




ノコギリはノコギリとして使い、金槌は釘を打つ為に使う、

他にも有りましょうけれども、とにかく何かを打つ為に使う、




その道具を道具として使うところに、本来の値打ちが、

価値が発揮されるのではないでしょうかね、




言わば教え、師匠の教え、

それは人が幸せになる事の為の道具だと言う事ですね、




あるいは和らぎ賀ぶ和賀心を頂く為の道具だと、

ならばそれは、聞いただけでは本当の役に立って居るとは言えない、




聞いて助かる、心が楽になる、それでも少しの効能は有るけれども、

本当の効能は、教えを使って初めて本当の効能が有る、




道具が道具として生きて来る、

言わば、教えを人が幸せになる事の為のその道具を使うと言う事、




それはやはり行じると言う事だと思いますね、

教えに照らして生きると言うのでしょうかね、




その教えを実生活において実践すると言う事ですね、




その教えを行じた時に初めて、その教えが幸せをもたらす為の、

幸せを得る為の道具として、本当の力を発揮する、




と言う事でも有りましょうね




師匠が進められた、そして助かりを頂かれたその信心、

その信心の要、根本は土の信心ですね、




受けて受けて受け貫く信心、

成行きをとにかく受ける、先ずは黙って受ける、




そこからなる程、神様の御働きと言うのでしょうかね、

神様が、私どもをお守り下さってある、




人間の幸せの為に、神様が御働き下さる、

と言うその実感も得られるようになる、




そのとにかく成行きを受けて受けて受け貫く、

と言う事を師匠はされたわけですからね、




ただ、闇雲に成行きを受けられたと言うわけではありませんね、

ここが見落とされがちな所ですけれども、




私どもはその成行きを受けなさい、と習います、

成行きを大切にしなさい、と習います、




それは勿論、自分自身が幸せになる事の為に




ところが、一寸した所なのですけれども、

大変大切な所が見落とされる事が有りますね、




師匠がその成行きを、いわゆる尊ばれた、

受けて受けて受け貫かれた、




そのなぜ受けて受けて受け貫かれたか、




それは、私にかけられた神様の願いが成就する、

その為の修行として受けさせて頂きます、




と、ここが抜けてしまうと、成行きを大切にすると言う事が、

骨抜きになる可能性が有りますね、何が何やら分からなくなると言う、




どこまでも師匠は、神様の願いが成就する事の為に、

成行きを修行として受けようと、心に決められたわけですね、




ですから先ずはその事を、勿論、愉快に楽しく有難くと、

成行きを頂くと言う事も有りましょうけれども、




師匠の最初は、やはり修行として成行きを受けられた、

と言う事ですね、しかもそれは、




ただ自分が幸せになる為に、成行きを受けよう、

と言うのではない、勿論、そう言う事も有るのでしょうが、




神様の私にかけられた願いが成就する為に、

その修行として受けます、と言う事ですね、




神様の願いが成就する、と言う事が第一なのです、

私の願いが成就する為に、成行きを受けられたのではありませんね、




ここが要ですね、




私が幸せになる為に、成行きを受けられたのではない、

私の願いが成就する為に、成行きを受けられたのではない、




勿論、表面に表れるものは、土の信心、

受けて受けて受け貫くですけれども、




その根本に有るものは、

やはり私は、天の心だと思いますね、




今朝頂きますのは、それこそ、

天の心をもって、土の心を行じる、と頂くのですね、




土の心を行じるのが、

ただ、土の心を身に着ける為に行じるのではない、




天の心を行使する為に、土の心を行じるのだと、

その、人の幸せを願う、人様の助かりを願う、




だから、その為の修行として、この成行きを頂きます、

と言う事にも繋がるかもしれませんね、




神様の願いが成就する、言わばこれは、

神様の幸せを願って居るわけですからね、天の心ですね、




神様の幸せの為に、神様が助かられる事の為に、

成行きを土の心で受けます、と言うわけですから、




その土の心を稽古する、

その根本は、天の心だと言う事になりますね、




神様の願いが成就する事、神様が助かられる、神様が幸せになられる、

その事を願っての受ける、と言う事になるわけですからね、




勿論、そこにはその神様の願いが成就すると言う事は、

私どもが幸せになる、と言う事が、その裏地として見え隠れする、




ものでは有りますけれどもね、




ギブアンドテイクで、

神様の願いが成就すれば、私どもが幸せになるから、




神様の願いが成就する事を願おう、

と言う時代も有るのかもしれませんけれども、




純粋にそうではない、

純粋に、神様の願いが成就すること、




即ち神様が助かられる、神様が幸せになられる、神様が喜ばれる、

その事を願って、今の成行きを受けて行こう、と言う事ですね、




天の心をもって、

土の心を身に着ける、土の心を行じるると言う事になりますね、




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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