今日も和賀心学 (2023-02-08)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
この天地金乃神様はお夢を通してでも色々な事を教えて下さる。師匠大坪総一郎師は、その意味が良く分からない時はもう一遍神様にお伺いしなさい、と教えて下さった。今どうでも必要な事柄はまた分かり易い形で教えて下さる事が有るからと。今朝は、人の命がかかっているのだから、命懸けの覚悟が要ると。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 470頁)
ビデオ: https://youtu.be/k7rq23Kr-LU
音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2023-audio/02-audio/Wagakokology_Labo-jp-2023-02-08.mp3
合掌
中原博信
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御理解 第92節
神は一体じゃによって、此方の広前へ参ったからというて、
別に違うところはない
あそこではおかげを受けたけれど、
ここではおかげが受けられぬというのは、
守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ
神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ
早く起きると遅く起きるとは、
氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ
彼の人はおかげを受けるけれど、
この私はどうしておかげが受けられぬのかというのは、
守り守りの力によって神のヒレイが違うからです
『守々の力』とは、教えを守る力のことです
お道の信奉者として守らねばならぬ三原則
一、朝寝はせぬ事(天の心)
一、一切の成行きを尊ぶ事(地の心)
一、信心辛抱を貫く事(日月の心)
守り守りの力、守り、守る、
ここでは二代親先生のミニ御理解ですけれども、
守り守りの力と言うのを、
教えを守る力、と教えて居られますね、
確かにそうだと思いますね、
教えをどれほど守り行じて居るか、
それによってやはり頂くおかげと言うのでしょうかね、
現れて来るおかげと言うのも違って来ると、
しだごだに教えをしながら、おかげだけは頂きたい、
と願っても、それはまぁ仕方の無い事ですね、
いつのお話でしたか、正札の店は安心して物が買える、
と言う御理解が有りましたが、
正札のお店で物を買うと言うのは、正札に書いてある、
そのお金をきちっと払って買う、と言うわけですからね、
師匠が、正札のお店は安心だと、
言わば正札の神様は安心だと、言う事にもなりますね、
と言う事は、そのそこに書いてある、
正札に書いてある値段のお金を払えば、その商品が買える、
と言うわけですから、
これがもしお金を払わずに、
正札に書いてあるお金を払わずに、値切って買おうとしたり、
幾らかごまかそうとしたり、と言う様な事だと、お店も安心ではない、
買う方の何と言いましょうかね、狡い考えには、
お店の人は請け合ってくれないと言う事になりますね、
それは、神様がこういう教えをして下さってある、
そしてその教えをきっちり守れば、おかげも約束して下さってある、
ある意味正札ですね、
ところがその正札に書いてあるお金を払わない、
言わば教えを守らない、行じないでおりながら、
おかげだけを、商品だけをもらおうとする、
あるいは、値切ろうとする様な狡い心が有ったりしたのでは、
お店の方、神様の方も何と言いましょうかね、
この人には売りたくないな、
と言う心にもなるのではないでしょうかね、
やはり先ずは、おかげを頂きたい、
それこそ正札通りの商品と言うのでしょうかね、
おかげを頂きたい、と思うならば、
その正札通りのお金をやはり払わねばならない、
御教えをしっかり守らせて頂き、行じさせて頂かなければ、
そこに陳列してあるおかげは頂けない、と言う事にもなりますね、
それをしっかり守れば、頂けれると言う事でもありますからね
先ずは、その神様が教えて下さる御教えと言うものを
しっかり頂き、正しく行じさせて頂く、
そしてそれを守り貫くと言う事がやはり要りますね、
そこに初めて、そのきちっとしたおかげも頂けれると、
きちっとした信心に、きちっとしたおかげ、とも、
師匠は教えて下さいますね、
今朝は 2つの事を頂きましたが、
お夢の中で、神様は色々な事を教えて下さいます、
その一つに、私がこうしてお話をさせて頂いているそのお話が
巡り巡ってと言うのでしょうか、
私の知らない様な所にでも伝わって行って居る、
と言う様な意味のお夢の内容でした、
ですからその、今すぐどうのこうのと、
目の前に効果が現れると言うわけではないけれども、
回り回って、どう言う人に伝わって居るか分からないから、
しっかり励みなさいと言う事かもしれませんね、
と、もう一つは、ある御信者さんが、
ある教会の御信者さんですが、
信心は私の命です、と仰られた方が居られます、
その事を改めて思い出させて頂きました、
信心は私の命ですと、
信心をそれこそ趣味の様にして、信心をする人も居られますね、
あるいはその、飾り物の様にして信心をする人も居ると、
そうではない、信心は命なのだと、
命懸けの信心、
と言うのが本当の姿だと言うのですね、
確かにそう言われればそうかもしれませんね、
人の助かりを願う程しの信心ですから、
人のそれこそ、人一人の命が助かる、
あるいは 10人、100人の命が助かる、
と言う程しの信心をさせて頂かねばならないのですから、
こちらも命懸けでなければ、
それこそ川に飛び込んで、溺れている人を助ける、
それがこちらが、何と言いましょうかね、
軽い気持ちで飛び込んで、
助けられるはずは有りませんね、
やはり溺れている人を助けようと言うからには、
こちらも命懸けにならねばならないと、
中には、溺れている人を助けようと飛び込んで、
自分が溺れてしまう、と言う事も聞いた事が有りますね、
ですから、よっぽどこちらも泳ぎに自信が有る、
そしてまたその上に、更に命懸けだと、
言うそれ程しの心構えと言うのでしょうかね、
覚悟がなければ、とても出来るものではないよと、
何も神様が、命を取ろうと言われるわけではありませんけれども、
その命を懸けてでも、人の助かりを願う、
人の助かりを願うからには、命をかける、
命懸けの心積もり、心構えがなければとても出来ないよと、
神様も聞いて下さらない、と言う事ですね、
守り守りの力、
これは取次者の力と言う事でも有りましょうけれども、
取次者も、やはり命をかけての事でなければ、
とても御信者さんの命が助かると言う様な事は、
神様が請け負って下さらないと言う事になりますね、
この神様はやっぱり正札の神様ですから、
正札のお店ならば、
それ相当に正札通りのお金を払わなければ、
商品は頂けないと言う事になりますからね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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