2023年2月20日月曜日

まず神様との確かな出会いから始まる (2023-02-20)

 今日も和賀心学 (2023-02-20)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


昔、未知との遭遇と言う映画があったと思うが、まず神様との遭遇いや遭遇ではなく確かな出会いが要る。神様との確かな出会いを感じた時から本当の信心が始まる。心に神様を感じるのである。師匠大坪総一郎師の許では、起きて来る成行きを大切にするところから神様との出会いが、自らの心の中で現実となる。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 488頁)


ビデオ: https://youtu.be/JUzxszz7WOQ

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2023-audio/02-audio/Wagakokology_Labo-jp-2023-02-20.mp3


合掌

中原博信

-------------------------------------------------------


御理解 第98節




心は神信心の定規じゃによって、お伺いする時には、

とりわけ平気でなければならぬ、落ち着いて静かに願え




右に行くべきか、

左に行くべきか




このような事は日常の生活の中で、

事柄の大小はありましても度々出会うものです




そのような時、ほとんどの人が自分の好き嫌いや損得、

常識的善悪で判断してその右左を決めて、




めげる方へめげる方へ行っているのです




本当は神様は角々に「さあ右だよ、さあ左だよ」

と方向指示を出しておられるのです




この指示に従っての生き方を、

天地のリズムに乗った生き方というのです




この道は広がりに広がった道なのです

その神様の神意を分かるために平静心がいるのです




平静心の根本はままよの心です




因みに、まだその神意が分からぬなら、

嫌いな方、損な方を選べばまず間違いないようです




得の道より 徳の道




出会うものです、と有ります、

度々出会うものですと、




今朝頂きますのは、それこそあれは昔の映画でしたかね、

未知との遭遇と言う様なタイトルの映画が有ったと思うのですが、




その未知との遭遇ならぬ、

神との遭遇と言う事ですね、




しかしそれが遭遇と言うのではない、

遭遇と言うのは、偶々会うと言う様な意味でしょうかね、




それではならないわけですね、神様と出会う、

それこそ何と言いましょうかね、




必然的に神様と出会う、

と言う様な事でなければならないように思いますね




しかし、沢山の人が居られますけれども、神様と出会う事なく、

一生を過ごして居る人々が如何に多いかと言う事ですね、




御神意と申しましても、

それこそ御神意に沿うた生き方と申しましても、




その神様との出会いが無いならば、御神意って一体なんだと、

神様がどうなんだと、神様が右に行け、左に行けと言われると、




言うけれども、それがどこに神様が居られるのか、

どうやって神様と、言わば会えるのか、と言うのでしょうかね、




神様のその指示を聞く事が出来るのか、

と言うその、御神意に沿うた生き方と言う前に、




その御神意が有ると言う事、

言わば神様の御心、神様の思いと言うのでしょうかね、




神様のご期待とでも言うのでしょうかね、

そう言うものが有ると言う事を、




先ずはっきり分からねばならないと、言う事なのですね、

ですから先ずは神様との出会いがなければならないと、




それこそ信心させて頂いて、おかげを頂く、

あぁおかげを頂いたと、それが確かに神様のおかげだと、




これは間違いなく、神様のおかげを頂いたと、

そこに神様を、先ずその存在を身近に感じる、と言う事が要りますね、




そしてまた次に、その神様の御心と言うものを、

やはり感じなければなりませんね、




はぁ今神様が、右に行けと仰って居られるのだな、

左に行けと仰って居られるのだな、




とその神様の御心を感じさせて頂く、

為には、先ずはその神様との出会いがまず第一だと、




言う事ではないでしょうかね、




神様との出会い無くして、御神意がこうだ、ああだよと言われても、

何が何やらその意味が有りませんからね、




まだ会った事も無い、見た事も無い様な人の話をしても、

それは滑稽なものですね、ですから先ず、私ども人間氏子にとって、




神様と言うものの存在と言うのでしょうかね、

実在と言うのでしょうかね、




そしてその確かな神様に出会うと言う事が、

まず第一だと言う事ですね、




神様の姿形を私どもの人間で見る事は出来ませんね、

何故出来ないのか、それは分かりません、




何もかもが、人間の目で見る、見れるわけではありませんからね、

人間の目に映るその範囲と言うのは決まっておりますからね、




光の波長の、これからこれまでだと、それ以外の波長は見えません、

また音も聞こえません、




人間の耳に聞こえる音の周波数は決まっておりますからね、

それを外れると聞こえません、




また年を取って来ますと、

高い音が段々聞こえなくなるそうですね、




若い頃には、高いいわゆるキンキンとした音が、

高音が聞こえたのが、




年を取って来るとその高音が聞こえなくなる、

耳が、機能が落ちて来るそうですね、




と、どう言うように、私どもが見たり聞いたり、

勿論触って感じると言う世界でも、その空気に触っても、




これが空気だとは感じませんね、

しかし空気が有るわけですからね、




私どもの五感と言うのでしょうか、

を使ってその存在を感じる、




それが感じられないならば、そこには存在しない、

と断じてしまうのは、やはりこれは間違いでしょうね、




私どもの五感には感じないけれども、

そこに在るものが有るわけですから、




それこそ昨日のコロナウイルスではありませんけれども、

見えません、小さいからです、




小さ過ぎて見えません、

けれどもそこに有りますからね、




地球もそうですね、どれが地球だ、と言っても、

地球、これが地球だと、見えません、大き過ぎるからですね、




その大地として、これが地球の一部なのだな、

と言うのは分かりますけれども、




地球全体を見るわけには行きません、

ですから地球を見れませんね、




大き過ぎるもの、小さ過ぎるものも、私どもの目には見えません、

見えないから無いと言う事ではありませんね、




私どもの五感で認識出来る範囲と言うのは、

大変、小さい、狭い世界ですね、




それよりか心に感じる世界と言うのが

少しは広いのかもしれませんね、




ですから神様を感じるでも、

心の中に感じるのではないでしょうかね、




心に感じる神様、心での神様との出会い、

先ずはその神様との出会いがあって、そこからの御神意であり、




様々な天地との、神様とのコミュニケーション、

と言う事になるのでしょうかね、




ではどうやったらその神様と出会う事が出来るか、




まぁ道を歩いておって、ただバッタリと遭遇する、

と言う事は中々難しい事でしょうね、




ですが、師匠大坪総一郎師の許で

信心の稽古をさせて頂いて居ると、




それこそ私どもの身の上に起きて来るその成行きを

大切にさせて頂く、成行きを尊んで行く、




そこに神様との出会いが有りますね、

それは心に感じる出会いです、




目に見えたり、肌で感じる、肌で感じると言うか、

心で感じる神様と出会う事が出来る、と言う事になりますね、




ですからどうでも先ずは成行きを、

それこそ騙されたと思ってでも、成行きを大切に尊んでみる、




そしたらそこに神様との出会いが有る、

心の中での出会いが必ず有ります、




信心はそこからが始まりと、

言う事になりましょうかね、




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



0 件のコメント:

コメントを投稿