今日も和賀心学 (2022-04-03)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
師匠大坪総一郎師は、真の信心とは安心のおかげを頂くことと教えて下さる。所謂ご利益を頂き一時的助かりを得ても長続きはしない。まさかの時はこの方にお願いすれば何とかして下さると言う縋る方を持つ事も一つの安心だが、更に、この事によって私を育てて下さっているのだと神の愛を実感する安心を頂きたい。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 388頁)
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合掌
中原博信
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御理解 第65節
日柄方位は見るにおよばぬ
普請作事は 使い勝手のよいのが よい家相じゃ
よい日柄というは 空に雲のない ほんぞらぬくい
自分に都合のよい日が よい日柄じゃ
いかに暦を見て天赦日じゃと言うても
雨風が強うては 今日は不祥のお天気じゃと言うではないか
日のお照らしなさる日に
良い悪いはないと思え
事をなすに当たって よきことを願い悪しき事のなきように祈る心が
日柄になり方位になるのである
悪しきを言わず思わず行わず 心は常に安らかなり
その上 天地の道理を知れば 千人力なり
迷いは失せて常時が天赦日なり
なるほど 自分に都合のよい日が吉い日柄じゃ と悟るべし
心は常に安らかなりと
常に安らかであり得る心を頂きたいものですね
真の信心とは 安心のおかげを頂くことであります
と教えて頂きます
その私どもが 安心の心を頂く
例えば困った時に そうですね 病気をするなら病気をする
痛いなら痛いが有る 痒いなら痒いが有る
それを取り除いてもらう いわゆるご利益ですか
ご利益を頂く ご利益を頂くからと言って
確かに助かります
しかしそれが心の助かり となっているかと言うと
それとはまた別の様に思いますね
ただ痛い痒いを取り除いてもらう
そしてそこに ああ楽になった 助かった
痛みが無くなった 痒みが止まった
と言う助かりは有りましょうけれども
そこに安心の心は有りませんね
一時的に助けてもらう事は出来る
しかしそこに痛い痒いを無くしてもらったと言う助かり方は有っても
心が真に助かる それはどう言う中にあっても心が助かっておる
いつ如何なる時でも安心が頂けておる
と言う事にはなりませんね
そのいつ如何なる中にも安心が頂けれる
これは色々な頂き方が有ると思うのですけれども
先ず一つ 安心だと感じれる時
それはやはり神様と御縁を頂くと言うのでしょうか
そして何か事が有った時には
この神様に頼みさえすれば何とかして下さる
と言うそう言う 何ですかね
そう言う意味での安心ですね
丁度それは 親の懐の中に在る安心 とも言われる事が有りますね
どんな中にあっても親が守って下さる と言うそう言う安心ですね
これは何か問題が有れば お取次を頂き
この先生にお取次ぎを頂けば助けてもらえる
と言うそう言う安心でもありますね
その先生にお願いすれば助けてもらえる
それが師匠であったりする訳ですけれども
そのお取次ぎをお願いすれば 助けてもらえる
だからどう言う事があっても ビクともしない
と言った様な助かり方も有りますね
しかしそれでは その取次ぎの先生が亡くなられたら その当てにする
と言うのか 頼りにしている先生が亡くなられる訳ですから
頼りになるものが無くなってしまいます
そうするとまた不安が出て来る様な事になりますね
その先生が生きて居られる間は
それで安心が頂けておるかもしれないけれども
亡くなられたらその安心が頂けない
いわゆる一時的な安心と言う事かもしれません
それでもまだ痛いのを治してもらって有難い
助かったと言うその助かりよりかは
も少し上の部類に入るのではないでしょうかね
それでもあの世まで持って行けれる程しの助かりではありませんね
しかしそれでも一応 より本当の助かり
それからまた更により真実の助かりが有ると思うのですけれどもね
この方にお願いしさえすれば 何とかして下さる
と言う縋るものが有る安心と言うのでしょうかね
それは例えば親であったり
それこそ無条件に縋って無条件に助けてもらえれる
と言うのが一番の安心ですね
よく幾ら幾ら代償を払わなければ助けてもらえないとか
普通の社会ではそれこそ幾ら幾らお金を払って何々を買い求める
その安心と言うものをお金で買うと言う様な事ですね
ですから幾ら幾らお供えしなければ どれ程のおかげが頂けないと
金の切れ目は縁の切れ目では有りませんけれども そのいわゆる
お金で安心を買う そう言うものが有るのかもしれませんね
御用をして安心をする これだけ御用をしたから
これだけ困った時には助けて下さるに違いない と言う安心ですね
そうではない もっとこちらも無条件なら
先生も 神様も無条件
お供えしようがしまいが
この神様はお頼みすれば必ず助けて下さる
まぁしかしそこには教祖様も 氏子の真心として
落ちている木の葉でも良いからお供えしなさい
と言った様なものは有るのかもしれませんけれども
それはまた別の話ですね
とにかくこの方にお願いしさえすれば助けて下さる
と言うそう言う方に縁を頂く
それこそ神様 天地金乃神様を
身近に身近に感じる様になる
そしてこの神様にお縋りさえすれば必ず助けて下さる
と言うそう言う安心を頂く
そう言う神様を頂くと言う事ですね
そこにも一つの安心が有りますね
そこからもう一つ先の安心も有ると思います
それはもう何か起こって来た時
それを痛いのを治してもらおう 痒いのを取り除いてもらおう
この人に頼めば痛いのを取り除いて下さる
痒いのを取り除いて下さる と言う縋る方が居られる安心ではなく
今痒い事は 痛い事は
これによって私を育てて下さろうとしておるのだと
言わば その事を 私が育つ事の為に神様がそうして居られるのだ
と頂けれる信心ですね
そうなった時に初めて 頼る人も要らなくなりますね
頼る人が居たら 頼る人が居なくなったらまた不安になります
我が心で我が身を救い助けよ
と教えて下さいます
これはもうそれこそ 一切が私を育てる事の為にあっているのだ
とそこに焦点が定まった時 これが本当の意味での安心のおかげ
と言うのではないでしょうかね
困った時に誰かに縋って助けてもらう
その縋れる人を に縁を頂くことも安心の始まりでしょう
しかしもっとより真実の安心が頂けれる為には その痛い痒い
その事によって私の心を育てて下さろうとして居られるのだ と言う
その事が合点が行く 分ると言う事
こうなった時に初めて どんな事が起きて来ても
これで育てて下さるのだ これで愈々大きな心にして下さるのだ
と言う安心ですね が頂けれるのではないでしょうかね
さあ私どもが どう言う安心の世界に
何がどこに安心を感じているか
どの程度に安心を感じているか
それを一遍自分の中に問い直して見なければならないと思いますね
どうでも我が心で我が身を救い助ける事が出来る様な
そう言う意味での安心を頂きたいものですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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