2022年4月21日木曜日

自らの心を料理する (2022-04-21)

 今日も和賀心学 (2022-04-21)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


皆が食べて美味しいと言うものを一緒に食べて美味しいと言うのには稽古は要らない。皆がマズイと言うものを如何に料理して美味しく頂くか、そこに信心の稽古が要る。それは美味しく頂けるように自らの心を料理するのである。皆が有難くないものを如何に有難く頂けるようになるかが信心の稽古である。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 488頁)


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合掌

中原博信

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御理解 第98




心は神信心の定規じゃによって お伺いする時には

とりわけ平気でなければならぬ 落ち着いて静かに願え




右に行くべきか

左に行くべきか




このような事は日常の生活の中で

事柄の大小はありましても度々出会うものです




そのような時 ほとんどの人が自分の好き嫌いや損得 常識的善悪で

判断してその右左を決めて めげる方へめげる方へ行っているのです




本当は神様は角々に さあ右だよ さあ左だよ

と方向指示を出しておられるのです




この指示に従っての生き方を

天地のリズムに乗った生き方というのです




この道は広がりに広がった道なのです

その神様の神意を分かるために平静心がいるのです




平静心の根本はままよの心です 因みに まだその神意が分からぬなら

嫌いな方 損な方を選べばまず間違いないようです




得の道より 徳の道




神様の神意を分かる と有ります

神様の御神意が分かる 神様の御心が分かると言う事でしょうね




神様の御心を分からせて頂く

と どうなるかと言う事なのですけれども




今朝頂きますのは

その世の人々が美味しい美味しいと言って食べる




それを私どもも一緒に食べる

そして美味しい美味しいと言う これには稽古は要らないと




人々が美味しいと言って食べるものを 私どもも一緒に食べて

やっぱり美味しいと言う それには稽古は要らないと




信心の稽古と言うその稽古の由縁は




人々が食べて これは美味しくないと

これはマズイと言う様なものを




如何においしく料理をして それを頂き

そしてその美味しいと感じる 実感するか そこに稽古が要るのだと




言わば人々がとてもこんなものは食べられない

こんなものはとても美味しくない と言う様なものを




それをどう頂くか 美味しく頂くか

おいしく頂けれる様になるのか




またそれを料理のし具合によっては

美味しいと感じる様に料理が出来る訳ですね




また美味しく 実際美味しくなる訳です

料理加減と言う事でも有りましょうね




そこが信心の稽古だと 言わば誰でもが有難いと頂く様な事柄を頂いて

有難いと言うのには信心の稽古は要らないと




例えば皆が 病気が治る そして病気が治ったら皆 有難いと言う

私ども 中には天の邪鬼な方が居るのかもしれませんけれども




けれども大概においては 病気になった

そして病気が治ったら有難い なる程治ったら有難い




私どももそう言うおかげを頂いて有難いと言うのは

これはある意味誰でも出来る 稽古は要らない




しかしその病気になって 治って有難いではなく

病気になって その病気になった事 その事に有難い




人々は 病気になって有難いと言う人は殆ど居ませんね




中には 私が小さい頃は風邪をひくと ああ今日は休めると

学校に行かなくて済むと いわゆる風邪をひいて有難い




病気になって有難い 学校に行かなくていいと

休めると言う様な事は有るかもしれませんけれども




それも人々が有難くないと言うものを有難くなる

一つの手立てでは有るかもしれませんね




とにかく 人がとても有難いとは思えない様な事柄の中に

有難さを感じて行く




さあそれをどう料理するか 勿論その料理するのは

その事柄ではなく 私どもの心を料理すると言う事になりますね




病気は病気ですから その病気をどうこう

煮るも焼くも出来ない訳ですから




その食べて美味しいと感じるか マズイと感じるか

それは私どもの心次第 味覚次第だと言う事になりますね




ですから料理をするのは 私どもの自分自身の心を

どう料理するか と言う事になりますね




それこそその一つは 今日のミニ御理解ではありませんけれども

神様の御心が分かる




その病気を通して

神様が何かを語りかけて居られる




その語りかけて居られる その病気の向こうに有る

そこに込められた神様の御心が分かる




その時に美味しく頂けれる様になる

と言う事では有りますね




師匠があれは何でしたか

萩桔梗 中に玉梓忍ばせて ですか




その萩桔梗 何か悲しい様な感じが致しますね

その中に込められた神様の思い 御思い その手紙ですね




神様の御心を 打ち明けたと言うのでしょうかね

打ち明けられたその手紙




それを分かった時に初めて ほろっと来ると言うのか

有難くもなれる と言う事ではないでしょうかね




やっぱり私どもが 人様が食べても美味しくない

と言うものを食べて 美味しいと感じる




有難くもないと言うものを頂いて

有難いと感じる その為には




そこに込められた神様の思いが分かって初めて

有難いと頂けれる様になるのではないでしょうかね




人が食べて 有難くもないものを

そのまま頂くと言う そこには稽古は要らない訳です




誰でもが有難く頂いているものを

私どもも有難く頂く時には稽古は要らない




しかし人が食べて有難くないと言うものを

有難いものとして 有難く頂けれる為には稽古が要る




そこに初めて信心の稽古が要る

と言う事になりますね




何を稽古するのか

私どもの自分自身の心を料理する稽古が要ると言う事ですね




そしてまた その言わば素材に込められた

神様の御心を分かろうとする稽古が要ると言う事でも有りますね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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