今日も和賀心学 (2022-04-24)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
師匠大坪総一郎師の信心の根本は、土の心です。受けて受けて受け貫く土の心です。しかも受けるばかりではなくその事を自らの心を育てる滋養とされた事です。そこに全ての事柄が活かされる事になります。食物は人の命の為に天地乃神の作り与え給うもの、事柄は人の心の為に天地乃神の作り与え給うものです。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 154頁)
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合掌
中原博信
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御神訓
不浄のある時は先に断りおいて
願いあることを頼めよ
穢い心が不浄です 即ち我情我欲です
いよいよ 真 善 美 の中に住みたい
偽りのない 悪のない 美の世界
即ち神徳の中にある歓喜に満ちた生活
そこには争いのない病気のない
勿論 物金等に不自由のない世界が限りなく開けてくるのです
神徳の世界とは不浄のない別天地
争いの無い 病気の無いと教えて下さいます
しかしそれは 今朝頂きますのは
決していわゆる物理的に争いが無くなる
物理的に病気が無くなると言う訳ではないと
私どもの心の中に争いが無くなる
私どもの心の中に病気が無くなる
それは例え体の上には病気と
お医者さんが診断される様な事であっても
私どもの心の中には
それが病気ではない
その一番良い例が 師匠大坪総一郎師は いわゆる糖尿病と言う
お医者さんの見立ての病気を患って居られました
しかし師匠はそれを
糖尿病とは思って居られませんでした
それはどこまでも神様の御都合
言わば糖尿病と言う神様の御都合として頂かれて居られました
もう師匠にとっては 世間で言う病気ではない訳ですね
師匠の心の中には病気は無いのです
それは神様の御都合でしかなかった訳です
なる程争い事と言うものも 世の中には色々有ります
それこそ我情我欲が有るから
人間の心の中に我情我欲が無くならない限り
大であれ小であれ 争い事が形の上において無くなる事は無いでしょう
無いでしょうと言ってしまえば元も子も有りませんから
無いのかもしれませんね しかし私どもの心の中に
それが争いではない 神様の御都合として頂けれるならば
正に神様の御都合である訳ですね
その事によって私どもの心を育てて下さる
その先ず私どもがどう言う中にあっても
和らぎ賀ぶ和賀心を頂こうとする
その必要不可欠な心 それはやっぱり師匠が教えて下さる
土の心ですね 受けて受けて受け貫くと言う心です
それこそ例え形の上では 争う事があっておったとしても
その事も神様の御都合として 神様の御働きとして受けて行く
これはある意味何と言いますかね
消極的な生き方の様に見えますけれども
実は超積極的な生き方とも言えるかもしれませんね
一切のものを受けて行こうと言うのですから
これはよほどの肚決めが無い限り 受けて行く事は出来ません
どうしてもやはり私どもには常識観念が有ったり
あああったら良い こうあったら良い と言う我情我欲が有りますから
中々受け入れると言う事が出来ませんね
それこそ我情我欲を無くさなければ
土の心になる事は 受け入れる事は出来ません
ですからある意味土の心になると言う事は信心の根本でもあり
また目指す所でもあるのかもしれませんね
その土の心が出来上がった上に
天の心を使う事が出来る
使う まあ何と言いましょうかね 使える様になる
と言うのでしょうか 土の心だけでは未だ足りない所が有ると
師匠は その八合目までは土の心で
後の二合は天の心でと教えて居られます様に
しかしその先ず土の心が土台とし 身に着ける事が出来なければ
後の二合の天の心も砂上の楼閣と言うのでしょうかね
無意味な事になってしまう様な気が致しますね
人間の真の助かりにはならない
そのどうでも受ける心 その土の心を身に着ける
その事に先ずは精進努力させて頂く と言う事が大切だと言う事ですね
世の中には中々受け難い問題
受け難い事がそれこそ成行きの中にも起こって参ります
その受け難い所を神様の御働きとして どこまで神様の御働きとして
受け入れる事が出来るか
いやこれは神様がこんな事をなさるはずは無いとか
これは何かの間違いだろうとか
言わばそこに神様の御働きと言うものを百パーセント信じ切らない所に
受け切らないと言う事でも有りますね
これは神様じゃない
これは人間が作り出したものだと言った様な事でしょうかね
確かに人間が作り出した事の様にあるけれども
形の上ではそうかもしれない
けれどもそのもう一つ向こうには
やっぱり神様の御働きであると言う事ですね
その神様の御働き
神様の御心をどこまで信じ切れるか
その信じ切るその度合いが 土の心がどこまで身に着いているか
と言う事のバロメーターでもある様に思いますね
どうでも先ずはそれこそ無条件に 土の心を
受ける心を身に着ける そこが肝要だと言う事ですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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