今日も和賀心学 (2021-11-26)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
師匠大坪総一郎師の御教えの極め付けは一切が神愛だと思う。よく信心を山登りに例えられる。言わば一切神愛は師匠が山の頂に登り着かれご覧になられた景色だと思う。頂上に登らなければ見れない。その山登りのルートを師匠は残して下さった。その気になれば誰でもが見れる様に、その成行きと言うルートを。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 349頁)
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合掌
中原博信
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御理解第52節
信心する者は驚いてはならぬ これから後
どのような大きな事ができてきても 少しも驚くことはならぬぞ
何時どのような事が起きても
それはどこまでも神さまの間違いない働き
金光大神御取次の圏内にあることと解っていても
吃驚仰天するような事がある
驚いてはならぬ と仰せられるが
そこは凡夫のこと 少なからず心は動揺する
そんな時は神さまに心を向け 心を鎮める願いをする事である
神さまは少しも驚いていぬかのような おかげを下さるものである
出来ずとも出来たかのようにおかげを下さる
金光大神のおかばいがあるからである
驚いてはならぬと
では驚かずに済む様になるにはどうしたら良いのか
師匠は信心修行に取り組む事だと
その修行に取り組んでいる
修行が出来ている時には驚かずに済むと仰ってある事も有りますね
そう言う師匠の御教えの中で やはり極め付けと言うのでしょうか
それは一切が神愛と言う事だと思いますね
そしてこの一切神愛と悟れる そう見える様になったら
驚かずに済む様になるのではないでしょうかね
その一切が神愛と師匠が喝破される そう教えて下さるからと言って
私どもに 一切が神愛と見える事は中々有りませんねぇ
難儀の中にある人に
どうしてこれが神愛かと 言われる事が有りますね
よく信心を山登りに例えられます その所々 5合目であったり
8合目であったり その登った所から見える景色と言うものが有ります
師匠が説かれる 教えて下さる一切が神愛
それはその山登りの頂上を極めた時に見える景色だと思いますね
言わば師匠はその山登りの頂上を極められた
そしてそこから見える景色を一切が神愛と見えられた訳ですね
そしてそれを伝えられた訳です
ですからその一切が神愛と頂けれる そう見える為には
頂上に登らなければ その世界が見えないと言う事になりますね
確かに一切が神愛の世界 の世界に住んでは居るのです
住んでは居るけれども いわゆる下界と言うのでしょうかねぇ
そう言う世界に住んでは居るけれども それが一切神愛とは見えない
それは頂上に登っていないからですね
何も5合目だから 8合目だから
世界が 住む世界が変わると言う訳ではないけれども
確かに一切神愛の中には住んで居るのだけれども
それが一切神愛とは見えない
頂上に登った時に初めて見渡す事が出来ると言うのでしょうかね
一切が神愛と見えて来る 自分の目で確認する事が出来る
自分の肌で実感として実感する事が出来る その為には
やっぱり山登りを頂上まで登らなければならないと言う事なのですね
登ったから一切神愛だ
登らないから一切神愛ではない と言う事ではないのですけれども
登ろうと 登るまいとに関わらず
一切神愛には関わりはない
けれども私どもの心の目と言うのでしょうかね
私どもが感じる世界と言うのでしょうかね
それはやはり頂上にに登らなければ一切が神愛と見る事が出来ない
感じ取る事が出来ないと言う事なのですね
一寸分かりにくいかもしれませんけれども
私どもが見ようとする そう見たい
一切が神愛と悟りたい その景色を見る為には
それこそ その景色を見れた時に初めて
驚かんでも済む世界に住めると言う事になりますね
それは私どもの心の中に一切神愛が合点がいった時ですから
その為には 山を頂上まで登らなければならないと言う事なのですね
その山の頂上から見える景色を伝えると言うだけでは不十分なのですね
その景色を見る事は普通の人では出来ませんからね
頂上に登られた師匠にだけ
一切が神愛と見えられたのだと言う事ですね
私どももその頂上を目指して山を登る そして頂上に登った暁には
一切が神愛と見える様になる 合点が行くと言う事ですね
ですから大切なのは 師匠がどういうルートを辿って
その頂上に行き着かれたかと言う事だと思いますね
その山登りの手立てと言うのでしょうか
どうしたら頂上に行き着く事が出来るか
どうしたら一切が神愛と見える様になるか
その道程 道すがらが大切であり
そこは登らなければならない
歩いて行かなければならないと言う事なのですね
どうしたらそこへ登れるか
それが成行きを大事にすると言う事だと思いますね
師匠が只ひたすら
成行きを大事にして行かれた
そしてその行き着かれた所が
一切が神愛と言う境地に行き着かれたと言う事ですね
ですからその私どもが歩かせて頂くとすれば
いきなりさんぱち頂上に登る事は出来ません
やはり麓から一歩一歩
山登りをして行かねばなりません
それが成行きを大事に 大切にすると言う事を
積み重ねて行くと言う事ではないでしょうかね
そしてまた私どもが伝えて行かねばならないもの
それは頂上から見た景色ではない
頂上に登れば誰でも見える景色
こう言う景色が見えるよ と言う事を伝えても
それはそこに登るまでの道を示さなければ
意味が無い事になりなりますね
誰でもは登れない 高嶺の花と言うのでしょうかね そう言う
単なる理想の世界を見せて居るだけだと言う事になりますからね
師匠の偉大な所は そこに至る為の手立てを
どうやってその山登りをするかを
明らかに残して下さったと言う事だと思いますね
ですからどうしたらその山の頂上へ登る事が出来るのか
私も未だその登山の途中にあると言う自覚を持って
どうしたらその山を登る事が出来るのか それを伝えて行く
これが師匠の弟子としての
メインの仕事ではなかろうかと思いますね
なる程師匠が頂上に登られて
ご覧になられた景色を伝える事も大切だとは思います
こう言う世界が有りますよと言う事ですね
しかしその途中の登る道を
この道を行けばと言うその道を伝えないならば
天辺だけあって
途中の梯子が無いのと同じですから
誰もはそこに行き着く事は出来ない世界を
ただ語って居ると言うだけになりますね
それでは意味が有りませんね
大切な事は どう言う道を辿ったらそこに
頂上に行き着けるかと言う道を伝えて行く事だと思いますね
それは成行きを大事にする それこそ師匠が最も説かれた事
それは土の心をもって 成行きを受けて受けて受け貫く
その土の心をもって成行きを頂いて行く
と言う事が先ず第一だと言う事ですね
それから勿論 天の心をもってと言う事も有りましょうし
日月の心をもってと言う事も有りましょうけれども
先ず第一は 土の心で成行きを頂く
と言うことからスタートするのではないでしょうかね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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