2021年11月26日金曜日

師匠大坪総一郎師の御教えの極め付けは一切が神愛 (11-26-2021)

 今日も和賀心学 (2021-11-26)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


師匠大坪総一郎師の御教えの極め付けは一切が神愛だと思う。よく信心を山登りに例えられる。言わば一切神愛は師匠が山の頂に登り着かれご覧になられた景色だと思う。頂上に登らなければ見れない。その山登りのルートを師匠は残して下さった。その気になれば誰でもが見れる様に、その成行きと言うルートを。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 349頁)


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合掌

中原博信

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御理解第52




信心する者は驚いてはならぬ これから後

どのような大きな事ができてきても 少しも驚くことはならぬぞ




何時どのような事が起きても

それはどこまでも神さまの間違いない働き




金光大神御取次の圏内にあることと解っていても

吃驚仰天するような事がある




驚いてはならぬ と仰せられるが

そこは凡夫のこと 少なからず心は動揺する




そんな時は神さまに心を向け 心を鎮める願いをする事である

神さまは少しも驚いていぬかのような おかげを下さるものである




出来ずとも出来たかのようにおかげを下さる

金光大神のおかばいがあるからである




驚いてはならぬと

では驚かずに済む様になるにはどうしたら良いのか




師匠は信心修行に取り組む事だと




その修行に取り組んでいる

修行が出来ている時には驚かずに済むと仰ってある事も有りますね




そう言う師匠の御教えの中で やはり極め付けと言うのでしょうか

それは一切が神愛と言う事だと思いますね




そしてこの一切神愛と悟れる そう見える様になったら

驚かずに済む様になるのではないでしょうかね




その一切が神愛と師匠が喝破される そう教えて下さるからと言って

私どもに 一切が神愛と見える事は中々有りませんねぇ




難儀の中にある人に

どうしてこれが神愛かと 言われる事が有りますね




よく信心を山登りに例えられます その所々 5合目であったり

8合目であったり その登った所から見える景色と言うものが有ります




師匠が説かれる 教えて下さる一切が神愛

それはその山登りの頂上を極めた時に見える景色だと思いますね




言わば師匠はその山登りの頂上を極められた

そしてそこから見える景色を一切が神愛と見えられた訳ですね




そしてそれを伝えられた訳です




ですからその一切が神愛と頂けれる そう見える為には

頂上に登らなければ その世界が見えないと言う事になりますね




確かに一切が神愛の世界 の世界に住んでは居るのです

住んでは居るけれども いわゆる下界と言うのでしょうかねぇ




そう言う世界に住んでは居るけれども それが一切神愛とは見えない

それは頂上に登っていないからですね




何も5合目だから 8合目だから

世界が 住む世界が変わると言う訳ではないけれども




確かに一切神愛の中には住んで居るのだけれども

それが一切神愛とは見えない




頂上に登った時に初めて見渡す事が出来ると言うのでしょうかね

一切が神愛と見えて来る 自分の目で確認する事が出来る




自分の肌で実感として実感する事が出来る その為には

やっぱり山登りを頂上まで登らなければならないと言う事なのですね




登ったから一切神愛だ

登らないから一切神愛ではない と言う事ではないのですけれども




登ろうと 登るまいとに関わらず

一切神愛には関わりはない




けれども私どもの心の目と言うのでしょうかね

私どもが感じる世界と言うのでしょうかね




それはやはり頂上にに登らなければ一切が神愛と見る事が出来ない

感じ取る事が出来ないと言う事なのですね




一寸分かりにくいかもしれませんけれども




私どもが見ようとする そう見たい

一切が神愛と悟りたい その景色を見る為には




それこそ その景色を見れた時に初めて

驚かんでも済む世界に住めると言う事になりますね




それは私どもの心の中に一切神愛が合点がいった時ですから

その為には 山を頂上まで登らなければならないと言う事なのですね




その山の頂上から見える景色を伝えると言うだけでは不十分なのですね

その景色を見る事は普通の人では出来ませんからね




頂上に登られた師匠にだけ

一切が神愛と見えられたのだと言う事ですね




私どももその頂上を目指して山を登る そして頂上に登った暁には

一切が神愛と見える様になる 合点が行くと言う事ですね




ですから大切なのは 師匠がどういうルートを辿って

その頂上に行き着かれたかと言う事だと思いますね




その山登りの手立てと言うのでしょうか

どうしたら頂上に行き着く事が出来るか




どうしたら一切が神愛と見える様になるか

その道程 道すがらが大切であり




そこは登らなければならない

歩いて行かなければならないと言う事なのですね




どうしたらそこへ登れるか

それが成行きを大事にすると言う事だと思いますね




師匠が只ひたすら

成行きを大事にして行かれた




そしてその行き着かれた所が

一切が神愛と言う境地に行き着かれたと言う事ですね




ですからその私どもが歩かせて頂くとすれば

いきなりさんぱち頂上に登る事は出来ません




やはり麓から一歩一歩

山登りをして行かねばなりません




それが成行きを大事に 大切にすると言う事を

積み重ねて行くと言う事ではないでしょうかね




そしてまた私どもが伝えて行かねばならないもの

それは頂上から見た景色ではない




頂上に登れば誰でも見える景色

こう言う景色が見えるよ と言う事を伝えても




それはそこに登るまでの道を示さなければ

意味が無い事になりなりますね




誰でもは登れない 高嶺の花と言うのでしょうかね そう言う

単なる理想の世界を見せて居るだけだと言う事になりますからね




師匠の偉大な所は そこに至る為の手立てを

どうやってその山登りをするかを




明らかに残して下さったと言う事だと思いますね

ですからどうしたらその山の頂上へ登る事が出来るのか




私も未だその登山の途中にあると言う自覚を持って

どうしたらその山を登る事が出来るのか それを伝えて行く




これが師匠の弟子としての

メインの仕事ではなかろうかと思いますね




なる程師匠が頂上に登られて

ご覧になられた景色を伝える事も大切だとは思います




こう言う世界が有りますよと言う事ですね




しかしその途中の登る道を

この道を行けばと言うその道を伝えないならば




天辺だけあって

途中の梯子が無いのと同じですから




誰もはそこに行き着く事は出来ない世界を

ただ語って居ると言うだけになりますね




それでは意味が有りませんね




大切な事は どう言う道を辿ったらそこに

頂上に行き着けるかと言う道を伝えて行く事だと思いますね




それは成行きを大事にする それこそ師匠が最も説かれた事

それは土の心をもって 成行きを受けて受けて受け貫く




その土の心をもって成行きを頂いて行く

と言う事が先ず第一だと言う事ですね




それから勿論 天の心をもってと言う事も有りましょうし

日月の心をもってと言う事も有りましょうけれども




先ず第一は 土の心で成行きを頂く

と言うことからスタートするのではないでしょうかね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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