今日も和賀心学 (2021-09-11)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
世間では、困った時の神頼みと言う、これは揶揄したものだと思うが、神様の想いを表していると思う。吾無力を悟り、神様のおかげを頂かなければ箸の上げ下ろしに至るまでここ一寸動けぬ私、そこから何事も神様にお縋りする生き方の人々、神と共に生きる人々を神様は待ち望んで居られるのだろう。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 364頁)
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合掌
中原博信
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御理解第57節
金の杖をつけば曲がる 竹や木は折れる
神を杖につけば楽じゃ
今の社会は闇の世です
今ほど真の光を求められている時はありません
神を杖につけば楽じゃ
と教祖は教えておられますが杖に出来る神がすくない
巷に氾濫している神々では
杖にも光にもなりません
宗教とは読んで字の如く
宇宙 天地の親神様の意 が示すことを教える宗教でなければ
真実 光にも杖にもなりません
神を杖につけば楽じゃと
その神様を杖につこうとする人が少ないのではないでしょうかね
それはただ何と言いますかねぇ
一寸神様にお縋りするとか言う そういう程度ではなく
それこそゾッコン神様にお縋りすると言う事ですけれどもね
一寸神社にお参りして パンパンと手を叩いて
神様にお願いをすると言う程度の事は
大抵の者はすると思うのですけれども
お正月の神参りなどが有りますね
しかしその それこそ昨日の御理解ではありませんけれども
信心が命だと 神様が命だと
その神様に命までもと絡みつく 命までもと縋りつく
そこまでの信心 神様が命だと言う程の人は中々少ない様に思いますね
神様が私ども人間に求めて居られるもの
それはやはり神様に縋ると言う事だと思いますね
神様にお縋りする
人間が今日まで生存出来 繁栄して来た
それは太古の昔から 人間と言うものに宗教と言うのでしょうか
信仰と言うのでしょうか そう言うものが有った
他の人間に似た 何とかデルタール人ですか
ネアンデルタール人とか 何とか
そう言う他の人間 今の人間に良く似た種には無いものが
人間には有ると
それはある意味 神に縋って来た
神に頼って来たと言う事ではないでしょうかねぇ
やはり信心の大本と言いましょうか
それは神様に縋ると言う事ではないでしょうかねぇ
教えを行じる事とか
信心 宗教と言うものも色々教えを説いたり致します
なる程教えも大切ですけれども
その根本にあるもの それは神様に縋ると言う事だと思いますね
よく何とか思考 プラス思考とか 何とかは心の持ち様だとか
あのあざなえる縄は 禍福はそれこそ塞翁が馬ですか
そう言う様な考え方も有りますけれども
そう言ういわゆる思想的な考えではなく
現実に神様にお縋りする その神に縋るその姿勢が
心根が神様が求められている事ではないでしょうかね
神様が人間に
縋って来いと仰って居られる様な感じが致しますね
そしてその縋らずにはおれない様な状況を 神様が作られる
そして人間が縋って来るのを待って居られる 神様だと思いますね
師匠がそれこそ悟られた
吾 無芸無能無才にしてただ信あるのみ
これこそ信心は命です 神様は私の命です
と言う境地だと思いますね
吾無力を悟れば 悟る程
神様に縋らずには居れない
神様のおかげを頂かなければ 箸一つ持つ事が出来ない
ここ一寸動く事が出来ない私だと言う事を悟る
悟れたらもうその後は
神様に縋らずには居れない訳ですからね
ある意味その信心の究極の所は
神様に縋らずにはおれない
神様のおかげを頂かずにはおれない私だと言う事を悟らさせられる
と言うのでしょうかね 悟る事だと
色々な御教えが有りますけれども
結局それらの御教えも
神様にお縋りせずにはおれない私
そして神様にお縋りしての私どもの日々のあり方
そこに導き入れる為の御教えと言う事も言えると思いますね
神様に縋らねばおれない
神様のおかげを頂かなければ
ここ一寸動く事が出来ない私どもだと言う事が分かってみれば
神様の仰せには背かれません と言う生き方が
そう言う心がまた出来て来るものですね
その神様の仰せには背かれません と言うその神様の仰せと言うのが
御教えとなって表れて来るのでしょうからね
ですからその神様のおかげを頂かなければ
神様のおかげを頂く為には
神様はこう御教え下さる その御教えを行じないならば
神様のおかげを頂く事も出来ないと言う事に繋がりますからね
神様が教えて下さるその教えをないがしろにして
神様に縋って 神様がそれに応えて下さるとは思えません
神様にお縋りするからには
その神様の御教えをやはり行じなければならない
その行じた後に神様にお縋りする そこにまた
神様がより以上応えて下さると言う事にもなるのでしょうからね
いわゆるプラス思考とか言われる様な そう言う人間の生き方と
神様を中心にした信心による生き方とは明らかに違いますね
どこまでも神様のおかげを頂かなければ立ち行かない私だと
私どもだと言う事が悟らされた後に 神様に縋る 縋って行く
それこそ神様は私の命ですと言う様なものを
神様は求めて居られるのではないでしょうかね
ですからよく言われますねぇ
困った時の神頼みと言われます
それはどちらかと言うと そう言う神様にお縋りする
と言うものを揶揄した言い方だと思いますけれども
これはあながち 困った時の神頼み
それこそ本当は神様が求められている
そこから それは入り口かもしれませんけれども
困った時でなくとも 神様にお縋りして行く
勿論困った時に神様にお縋りするのは勿論ですけれども
困らない時にでも神様にお縋りして行く
そう言う神様は私の命ですと言った様な生き様
それを神様は 人間に求めて居られるのではないでしょうかね
そこに初めて神も立ち行き 氏子も立ち行くと言う
神 人 繁栄の道が開かれるのではないでしょうかね
どうでも 神様にお縋りする生き方
神を杖につく 神を杖につき通しにつく
本当に神様を杖についての生き方を身に着けてくれよと言うのが
神様の願いではなかろうかと思いますね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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