今日も和賀心学 (2023-04-04)
- より良い暮らしと心の成長を求めて -
昨日は、昭和54年7月2日の師匠大坪総一郎師の研修を聴かせて頂いた。そうしたら昨夜、ある方の投稿に、正にその投稿の答えになる様な事をその研修の中でお話されていた。そのリズムには驚く。打てば響くような天地のリズムの中で信心の稽古をさせて頂くから信心が楽しいものになる、有難いものになる。
ご覧頂き有り難うございます。
(和賀心教典 361頁)
ビデオ: https://youtu.be/i3Sg2Srp79U
音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2023-audio/04-audio/Wagakokology_Labo-jp-2023-04-04.mp3
合掌
中原博信
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御理解 第56節
日にちさえたてば世間が広うなってゆく
ひそかにして信心はせよ
『世間が広うなって行く』と同時に
自分の心を寛く大きくして行く事である
ひそかに信心の喜びをじっとおさえて、
心の奥に喜びの泉をつくることである
いたずらに、ただ日にちが経って忘れていくだけでは、
勿体ないことである
ひとりわが道をゆく
ひそかに信心の喜びをと、
教えて下さいます、
さあどう言う所に信心の喜びを感じるのか、
と言う事も大切だと思いますね、
私ども、師匠大坪総一郎師の許で
信心の稽古をさせて頂いておりますと、
日々の成行きの中に、神様の妙なるまでの働き、
御働きと言うものを実感させて頂きますね、
そこにまた、信心の喜びと言う様なものを
感じさせて頂きますね、
実は昨日、師匠の研修のお話を頂いておりました、
そして、なる程と言いましょうか、
そのお話の中で、四代金光様がご入院になさると、
明日からご入院なさると、
それでその事をお願いしていたら、
人の事は、自分の事、と言う様な事を頂いた、
と言う様な朝の御理解に対しての、
研修のお話しでしたけれども、
言わば人様が難儀をする、
それを自分の難儀としてお願いをする、と言うのでしょうかね、
人の痛みを、我が痛みとして願う、
とでも言うのでしょうかね、
それから更に、
色々話は続くのですけれども、
ただそれだけ、人の痛みを我が痛みとして願うと言う、
そこに止まらず、そこから更にお話が発展するのですけれども、
その研修を頂いておりました、
そうしましたら、昨日の夜ですか、
LINE を見てみましたら、
ある投稿があっておりました、
ある方が投稿して居られたのですね、
その自分の疑問を少し書いて居られました、
これは今日頂いた師匠の研修が、あれがその答えに、だな、
と、思われる様な質問の内容でした、
神様がそれこそ今日、昨日ですから昨日の今朝ですね、
師匠の研修のお話しを頂かせて頂いた、
そしたらその事が丁度答えになる様な質問を、
夜、ある方がして居られた、
これは師匠のお話が、正にそのお答えだな、
と言う感じなのですね、
言わばそう言う、天地のリズムと言う様な事を
申されますけれども、正にリズムですね、
ある答えを先に聞いた、そしたらその後に、
それが答えになる様な質問を投げかけられた、
と言うわけですからね、
その中では、ハッとする様な師匠のお話しも有りました、
例えて言えば、例えば人の痛みを我が痛みとして、
その人様が助かられる事を願う、
そして、それから先は、神様の世界だと、
神様の分域だと、言う様な事を仰って居られましたね、
ですから、少し違うのですけれども、
内容的にはこう言う事も含まれるだろうと思うのですが、
言わば人様の痛みを取り除いて欲しいと願う、
それこそ人様の痛みを我が痛みとして願わせて頂く、
と言う様な事でしょうかね、
そして願ったその先の事は、
それは神様の世界だと、
神様の世界の事だと言うわけですね、
その例えば、人様の痛みが取れる時期
と言うのも有るかもしれませんね、
今日取れるのかもしれません、明日取れるのかもしれません、
明後日取れるのかもしれません、
そしてその痛みの取れようが、全部の痛みが取れるのか、
半分の痛みになるのか、その辺のさじ加減と言うのでしょうか、
それは、神様の世界、神様のご都合によるものだと、
ですから、例えば明日にも全快しますように、と願って、
明日全快する、それが良いのかどうかは、
私どもには分からないわけですからね、
その例えば、痛みなら痛みに込められた神様の願い、
ご計画、御思いと言うのが、またお有りになる事でしょうから、
そこから先は、神様の世界だと、
大切な事は、その人の痛みを願わずに居れない、
神様に願わずには居れない、
と言うその心が大切なのだと、言う事なのですね、
願った後に、それがいわゆるおかげになるか、ならないか、
それはまた別の問題、
それは神様の世界の、神様のご都合の世界、
と言う事になりますね、神様の分域だとも仰って居られましたね、
大切なのはその、人の難儀を見て、人の痛みを見て、
その事を願わずに居れない、その心が大切なのだと、
言ってみれば、神様の目からご覧になれば、
勿論その痛みの有る人が、痛みが無くなる様なおかげを頂く、
と言う事も大切なのでしょうけれども、
それを見た人、その方が、祈らずには居れない、
願わずに居れない、と言うそう言う心が育つ事、
その事を、神様はまた願って居られると言うのか、
ご覧になりたいのではないかと思いますね、
やはり人の難儀を見たら、その難儀を、
何とかならないものだろうかと、
願わずには居れない、祈らずには居れない、
その心が大切だと言う事ですね、
そしてそこから、願った後の先の事は、
神様の世界、神様の分域だから、
あとは神様にお任せする、
と言う事になりましょうかね、
とにかく、人の難儀を見て、
その難儀を願わずにはおれない、
と言う心が私どもの中に育つ事、
これがまず大切だと言う事ですね
どうぞよろしくお願いいたします
ありがとうございます
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