2023年4月2日日曜日

師匠大坪総一郎師は、一に神様、二に神様、三にも神様と神様中心の生き方 (2023-04-02)

 今日も和賀心学 (2023-04-02)

 - より良い暮らしと心の成長を求めて -


ある教会の有名な御信者さんは、一に神様、二に公、三に私事をとると言われたと。一方師匠大坪総一郎師の場合は、一に神様、二に神様、三にも神様と徹頭徹尾神様中心であられた。だからこそ天地金乃神様も師匠中心に御働き下さったのだろう。人からは笑われても神様から笑われてはならないと仰っておられた。


ご覧頂き有り難うございます。

(和賀心教典 67頁)


ビデオ: https://youtu.be/aOMPDZ7vwwQ

音声のみ(データ節約): https://www.gorikai.wagakokoronet.org/nakahara-gorikai/audio/2023-audio/04-audio/Wagakokology_Labo-jp-2023-04-02.mp3


合掌

中原博信

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御神訓




神信心してみかげのあるを

不思議とは言うまじきものぞ




物を買い求めるにも、百円の品なら百円を

支払わなければ、入手することは出来ぬ、




千円の品を五百円支払っても、

求める品もわたされない




師匠の信心姿勢を

端的に物語って居られるように思いますね、




100円の品物を求めるには、

100円払わなければならない、




1000円の商品、品物を求めるのに、

500円払っても、それは求められないと、




言わば神様のおかげを頂きたい、と思うならば、

それだけ神様に心を向けなければならない、




と言う事にもなるのではないでしょうかね、




私ども、神様のおかげを頂きたいと願います、

しかしそれが、その困った時の神頼み的な、




困った時だけ、神様を思い出し、神様にお願いをする、

自分のいい時だけと言うのでしょうか、




何か、神様のおかげを頂きたい時だけ、

と言うのでしょうかね、




1日の内のほんの一時だけ神様の事を思い出し、

そして神様のおかげを頂こうとする、と言うのでしょうか、




その神様の事に対する比重が少ないと言うのか、

弱いわけですね、




それでいておりながら、大きな神様のおかげを頂きたい、と願う、

それでは大きなおかげは頂けないよと、言う事ですね、




師匠大坪総一郎師の信心姿勢、その一つは、1にも神様、2にも神様、

3にも神様と徹頭徹尾神様中心であられたと言う事ですね、




あるお教会の有名な御信者さんのお言葉に、

まず第一に神様事を取ると、そして次には公の事を取る、




そして最後に私の事、私事を取ると言うのでしょうか、

持って来ると言うのでしょうか、




ですから神様第一、そして公事が第二、私事はまだその下の

第三だと仰った方が居られると、お聞き致しますが、




師匠の場合には、1も、2も、3も無い、1も神様だ、2も神様だ、

3も神様だ、言わば公事もなければ私事も無い、




徹頭徹尾、神様、神様、神様と言う生き方であられたと、

言う事ですね




まぁ言ってみれば私どもが、

365日の内の、1日か、2日、神様の事を思い出すとすれば、




師匠は、365日、それこそ丸々神様中心であられたと、

言う事ですね、




だからこそ、神様の方も師匠に

心を向けて下さったのではないでしょうかね、




またの御教えにも、思い出すよじゃ、惚れよが薄い、

思い出さずに、忘れずに、と言うのも有りますね、




とにかく師匠は、神様の目を気になさって居られたと、

も言えるかもしれませんね、




人から笑われても、神様から笑われてはならない、

とも仰って居られましたね、




私どもは、どうしても人の目と言うのでしょうか、

人様からの評判を気に致しますね、




皆んなからこう言われた、ああ言われたとか、

それこそ人気俳優と言うのでしょうか、




スポーツ選手の人気者だとか、いわゆる人の目を、

人からの評価と言うものに、何か重きを置きがちですけれども、




師匠の場合には、人からどう思われようと、

人の評判がどんなに悪かろうと、良かろうと、




一切頓着が無かったと言うわけですね、

神様の目だけを、神様からどう評価されるか、




神様からどう思われるか、

その神様の目だけを気になさって居られたと、




ですからたとえ人から笑われても、

神様からは笑われてはならないと、




そのまたそうでなければ、

神様の仰せ通りには、仕れない所も有りますからね、




神様がそんな事を頼まれるはずが無いとか、

申しますけれども、頼まれますね、




例えば、右に行けとか、

教祖様の場合もそうですね、




世間では、そんな事をして、

馬鹿な事をして、と言われる様な事でも、




神様の仰せだからと、

神様の仰せに従うて居られますね、




人の目を気にしていたのでは、

真実の信心と言うのは、出来ないのかもしれませんね、




どこまでも神様中心であられた、

神様から評価して貰う、




人の評判などはもうさておき、

神様の評価、神様の目から見て、




神様から、どうご覧になって居られるか、

と言う、神様からどう見られるか、と言うのでしょうかね、




その事だけであられたわけですね、

どこまでも神様中心であられたと、言う事ですね、




そのそれ程しに、神様、神様、神様と

神様中心であられたからこそ、




神様もまた、

師匠を中心に置いて下さったのではないでしょうかね、




私どもが、神様の事を中心に置かずに、

他の事にうつつを抜かしながら、




神様のおかげを頂きたい、と自分の欲しい時だけに、願っても、

これは中々頂けるか、頂けないかは難しい所ですね、




神様のおかげを本当に頂いて行きたいならば、

それこそ四六時中、24時間、一年 365日、




神様の事を思い続ける、神様の目を気にし続けての信心生活、

と言うものが、やはり必要なのかもしれませんね、




実際にはそうはいかなくとも、そう言う心積もり、

心がけが要ると言う事ですね




どうぞよろしくお願いいたします




ありがとうございます



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